2021年1月7日木曜日

主日日課の学び(石居正巳先生) B年 主の洗礼日

 主の洗礼日 イザヤ42:1-7 使徒10:34-38 マルコ1:9-11


1)東方教会では殊に、主の顕現と結びついて、洗礼の出来事が記念された。それは主の公

 生涯の初めである。主ご自身が洗礼を受けられた記事は、マルコでは短いので、それぞ

 れの記述の意味を深く考えなくてはならない。


2)主はガリラヤのナザレにおられて、そこから洗礼者ヨハネのもとに来られた。それ以前

 の生涯については、マルコには記されていない。主の地上での歩みは、その公の生涯、

 ことに十字架の死と復活という出来事が決定的な意味をもっており、そこから逆に見ら

 れることが必要である。洗礼者ヨハネは、罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼を

 宣べ伝えていて、多くの住民がそのもとを訪れ、洗礼を受けていた。イエスご自身は罪

 のない存在であったのに、他の人々と同じように、そのもとで洗礼を受けられた。しか

 し、ヨハネ自身が証ししていたように、主は彼よりもすぐれたお方であったばかりでな

 く、水の洗礼でなく聖霊による洗礼を授けられるお方であった。それにも関わらず謙遜

 に身を低くされ、しかも人々の立場に身を置かれたのである。


3)主の洗礼に続く出来事は、主ご自身の体験であって、信仰をもって主を見ることができ

 るまでは、人々には隠されている。すなわち水の中から上がるとすぐ、天が裂けて、霊

 が鳩のように降って来るのを、ご覧になった。「どうか、天を裂いて降ってください。

 御前に山々が揺れ動くように」(イザヤ63:19)と預言者は神の来臨を求めている。しか

 しそのような報復のためではなく、恵みの音信をもって神はイエスにおいて私たちのう

 ちに来られた。「裂ける」という言葉は、もう一度主の十字架の上での死に際して、神

 殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた(マルコ15:38)ときに用いられている。


4) "霊" が鳩のように降るというのは、「聖」霊と書いてはないが、明らかに御霊のこと

 を指していると思われる箇所で、こうした表記の仕方になっている。天が裂けたという

 のと同じように、主の洗礼は宇宙的な意味をもっていた。御霊は天地創造のときに水の

 面を動いていたし、洪水ののちノアのもとにオリーブの葉をくわえて帰って来たのは鳩

 であった。「その後わたしはすべての人にわが霊を注ぐ」(ヨエル3:1)と、預言は聖霊

 が与えられることを約束する。そして主は聖霊によって洗礼を授けるお方であった。


5)幻と共に聞かれた声は、旧約聖書の特定の語句ではないが、詩編2:7 、イザヤ42:1など

 を反映している。それは主イエスに対する特別な語りかけであった。そして同じみこと

 ばが「これに聞け」という言葉を付して、山上の変容に立ち会った弟子たちにも聞かれ

 た(マルコ9:7)。もしキリストのみことばを聞き、それを受入れるなら、私たちもまた

 神の子たちにされる。パウロは「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キ

 リストを着て」神の子なのである(ガラテヤ3:27) と言う。主のみ名による洗礼はただ

 の水の洗いではなく、そこで私たちは聖霊を受け、主イエスと共に「あなたはわたしの

 愛する子」という神の宣言を聞くことができるのである。


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