四旬節第一主日 創世記9:8-17 1ペトロ3:18-22 マルコ1:12-13
1)復活の前四十日の備えをする慎みの時期に、主イエスの四十日の断食と荒れ野の誘惑の
出来事が覚えられる。昔の教会では、多くの人が復活日に際して洗礼を受けたが、主の
出来事も洗礼を受けてすぐのことであった。荒れ野の誘惑に対する主の勝利は、アダム
の誘惑で罪に落ちた人間の存在に救いをもたらすことでもあった。
2)洗礼者ヨハネのもとで洗礼を受けられたイエスは、神が愛されるみ子という声を聞かれ
た。そしてそれまでの人生から、神による使命のもとでの公生涯へと歩みだされた。し
かし、それは決して穏やかな将来を約束するものではなく、直ちに試練との闘いに直面
させるものであった。御霊は囲いの中に保ってくれるのでなく、むしろ荒れ野へと送り
だした。マルコの荒れ野での試練の記事は短くて、主イエスが断食して飢えたもうたこ
とも、誘惑の内容も記してはいない。しかし注意してその言葉を見なくてはならない。
3)主イエスは洗礼者ヨハネと対照的に、人々の中に福音を宣べ伝えられた。しかし、まず
ヨハネと同じように荒れ野に赴き、そこで誘惑を受けられた。40日という期間は、イス
ラエルの民が40年の間荒れ野をさまよったこと(民数32:13)、モーセが四十日四十夜神
と共にシナイの山に留まったこと(出34:28)、エリヤが神の山ホレブを目指して四十日
四十夜歩き続けたことなどを連想させる。荒れ野はまた神に敵対する力が住まう所であ
り、人間生活を脅かす原始的混沌の力が存在すると考えられた。それにも関わらず旧約
の伝統は、そのような荒れ野で神は民と共にいてくださったとする(申命2:7)。それだ
けでなく、イスラエルの民は、荒れ野の中で神を試そうとした(申命6:16) 。そして今
や主イエスがサタンから試される。人々の無理解と不信仰にも関わらず、共にいてくだ
さる主の姿を示唆している。
4)マタイは四十日の断食ののちサタンが誘惑を試み、主がサタンを退けられたのち、天使
が来て仕えたというが、マルコではむしろ誘惑は連続してあったと考えられる。主と共
にいたという野獣は、恐らくサタンの悪の力の象徴であろう。一方では天使的力が他方
ではサタン的な悪が、そこでもみ合っている。そして遂に離れては行かない。サタンは
悪魔と同じ意味で言われているが、ヨブ記の最初に現れるように、究極的には神に服す
る者でしかない。マルコは荒れ野の記事の中では、主イエスがサタンの力を退けられた
と明らかには言っていないが、汚れた霊を追い出したもうた次第(マルコ1:24,25)の中
には明らかにこれに打ち勝ちたもうたことが示唆されている。
5)主が荒れ野でサタンの誘惑を受けられたのは、すべての人と同じ立場で闘い、また人々
に勝ちを与えてくださるためであった。主イエスも一面真の人でありたもうた。誘惑と
訳される言葉はまた試練の意味をももっている。私たちが出会う試みを罪への誘いとす
るか、神が愛する者を鍛えたもう(ヘブル12:6) 試練とするのかは、私たちが主の勝利
を自分のものとし、み使いたちに支えられているかどうかにかかっている。
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