ヨブ7:1-7 1コリント9:16-23 マルコ1:29-39
1)シモン・ペトロのしゅうとめの癒しと、主の宣教への意志が示される。主イエスは、教
え、宣教し、癒すという働きにおいて救い主としての来臨を人々に現わされた。その出
来事の中心は、神の国の福音を宣べ伝えられるイエスご自身である。
2)カファルナウムの会堂で教え、汚れた霊に取りつかれた男を癒してくださった主は、シ
モンの家に行かれた。シモンとその兄弟アンデレは、漁をしていた湖で、主について行
くように召され、網を捨てて従った。確かに仕事を捨てて主に従ったのではあるが、し
かしそれは彼らが家族と切り離されてしまうことではなかった。むしろ主は彼らの家を
訪れ、その家族にも恵みの働きを及ぼされた。のちにシモン・ペトロは、伝道旅行にも
自分の妻を伴ったほどである(・コリント9:5)。たまたまシモンのしゅうとめが熱を出
して寝ていたので、イエスは手を取って起こし、その病を癒された。
3)主はいろいろな病人を癒されたが、2 章の記事に現れるように、それは罪の赦しを伴っ
ている。罪の赦しは必然的に神との交わりの回復をもたらす。さまざまな仕方で病気を
いやされたけれども、手を取って起こすのは、癒し主である主との人格的な関わりをよ
く現しているといえる。しゅうとめの信仰について特に言及されてはいないが、起こさ
れた彼女は一同を「もてなした。」この言葉は「奉仕する」(ディアコニア)という言
葉の変化形で、奉仕をしはじめて、その後も引き続いてしていることを示している。も
ちろん癒しの奇跡がいつでも直ちに救いではない。しかしここには主との関わりが起こ
り、続いたことが示唆されている。
4)公の礼拝と祈りの場であった会堂から、主はその力を個人の家の中にも及ぼされた。夕
方になって安息日が終わると、待ちかねたように人々は病人たちを癒して頂こうと、シ
モンの家の戸口に連れてきた。家の戸口は、人々の社会生活への入口でもある。主イエ
スの働きはこのようにして浸透し、また広まって行った。マタイは同じ出来事の記述の
のちに、イザヤ53:4「彼はわたしたちの病を担った」という言葉を引いている(マタイ
8:17) 。主による癒しは、その力の発揮というだけでなく、私たちの重荷を代わって担
う十字架による罪の赦しと結びついているのである。
5)町の大勢の人たちが遅くまでシモンの家を訪れて、癒しを願ったと思われるのに、主イ
エスは翌日も早くから起きて、人里離れた所でひとり祈っておられた。シモンたちはイ
エスを探し、見つけると「みんなが捜しています」と言った。それは客となられたイエ
スの行方を心配したというだけでなく、はや癒しを求めて人々がやって来たということ
であったろう。しかし、主は人々の求めに応えるために同じ町に帰ってゆくのでなく、
神の使命のためにほかの町や村に行くことを示された。「そこでも私は宣教する。その
ために私は出てきたのである」と言われたのである。悪霊を追い出し、病を癒すことを
やめられたわけではないが、肝心なことは神の国の福音の宣教にあった。
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