2021年1月3日日曜日

主日日課の学び(石居正巳先生) B年  顕現主日 マタイ2:1-12

 顕現主日  マタイ2:1-12  イザヤ60:1-6  エフェソ3:1-12  (A)


1)主の顕現日は、1 月6 日に守られる。この日以前は降誕節であって、降誕祭の飾り物も

 保たれてよい。もともとはこの日も東方では主誕生の記念を意味していたが、次第に異

 邦人にも現れたもうたことを記念するようになった。6 日は主日に限らないから、近く

 の主日に移して記念される。

2)主イエスがすべての人に現れたことを記念するために、東方の占星術の学者たちの来訪

 記事が用いられる。この記事は、マタイ福音書自体の脈絡からすると理解に困難な面が

 沢山ある。主イエスがベツレヘムで誕生されたことを示しているが、ルカのような説明

 がないので、ヨセフがもともとベツレヘムの住人であったような印象を与える。前後の

 記事にはヨセフが軸になった話が続いているが、ここではヨセフは現れない。占いは旧

 約では厳しく戒められているのに、占星術の学者が最初に主イエスを礼拝した者として

 描かれる。彼らは、星に導かれてエルサレムまで来たし、さらにベツレヘムへと星で導

 かれているのに、なぜ預言者たちの言葉に示されることを必要としたのだろうか。ヘロ

 デ王が自分の王位を守るために近親までも殺したことはよく知られていただろうのに、

 エルサレムで「ユダヤ人の王として生まれた方」を尋ねるのは頂けない。

3)しかし神のみわざが自然界にも特別なしるしを伴うことはあり得る。異邦の人々もまた

 神のもとにあって、その救いを求めている。星を見た人々は当然多くいただろうし、祭

 司長、律法学者らは正しい知識をもって答えることができた。しかし、それを自分に関

 わることと認めて出掛けて行こうとはしない。東の学者たちはその意味で模範となる役

 割を果している。祭司長らは自分たちは主イエスに敵対する立場しか取らなかったけれ

 ども、聖書の言葉で答えることはできた。出発はどうであっても、主に出会うのは聖書

 の言葉によるのである。主はこの世に属さない国の王であられたが、人々は最後までそ

 の区別が付かなかった。主が公生涯に入られたときには、すでにヨセフの姿は消えてい

 るが、マタイにおいては2 章の終わりまで、なお重要な役割を負わされている。

4)占星術の学者たちは「ユダヤ人の王」として生まれたお方を尋ねたが、それはただヘロ

 デの次の王位を占める者の意味ではなかった。「メシア」として神から遣わされたお方

 が予想されていたのである。異邦人である占星術の学者たちも、ヘロデ王も祭司長、律

 法学者たちも、主の誕生の出来事に関わりはするが、しかし正しく出会うことはできな

 い。しょせん人の求めは、神のみわざに適合しているものではない。ただ具体的に主に

 出会うことを果たした者たちだけが、新しい道を示された。ベツレヘムの羊飼いの出来

 事を記さないマタイでは、それをまず果たしたのが異邦人である占星術の学者たちであ

 った。主の顕現を受け止めたのは、宗教的なエリートたちでも、社会的な力を持つ者た

 ちでも、伝統的に選民と考えられた人々でもなくて、ユダヤ人の考えによれば救いに遠

 い者でしかない人々であったのである。

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