教会だより みぎわ Weekly -20210110
今週の聖書の言葉
福音書 マルコ1: 4~11 (新61)
洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
説教「神の心に適うもの」 徳弘浩隆師
1.「神の期待、親の期待?」
今日の聖書の言葉を読んでいて、私のこころに残ったことばは、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉でした。
「あなたは私が大切にしている、目に入れてもいたくない、愛する子だよ。あなたは私の願い通りの子だよ」という言葉を連想しました。いわれたことがありますか?いったことがありますか?いわれてうれしかったですか?重荷に感じましたか?祈りの会で参加者でいろいろと、こどものころからの親子関係を語り合っていることを思い出しました。
私たちも、親子関係の中で、親の期待に応えようと一生懸命になることもあるでしょう。または、それがなかなかできなくて、苦しんで大人になった、そんな気持ちもあるかもしれません。親からそんな言葉や期待もかけてもらったことがない。自分は生まれてきて幸せだろうか?と自問自答することもあるかもしれません。誰しも、そんなそれぞれの気持ちを経験しながら今を生きているでしょう。もうとらわれない人もいれば、それがまだ自分を支配していたり、それに押しつぶされてしこりになっている人もいるでしょう。
信仰をもって生きていくことは、自分の親の期待に応えて生きていくことなのでしょうか?あるいは、神様の期待があるとしたら、それにこたえて一生懸命生きていきことなのでしょうか?神様の期待って何だろう?そんなことを一緒に読んでいきましょう。
2.聖書を学びましょう
今日の聖書は、クリスマスにイエス様のお誕生を祝った後、名前が付けられ、神殿で祈りを捧げと、こどものころの話が続いて、今日は大人になったイエス様が洗礼をお受けになるところです。聖書そのものには、イエス様の幼少期のエピソードはあまり記されていません。
今年一年一緒に読んでいくマルコの福音書では特に、クリスマスの出来事すら伝えず、「神の子イエスキリストの福音の初め」という書き出しで、預言者イザヤが予言していた通り、その準備をする人が遣わされ、荒れ野で叫ぶと、洗礼者ヨハネの話から始まります。そして、そのまま、大人になったイエス様がヨハネの前に現れて、洗礼を受けるという出来事から始まるのです。その時、天から声が聞こえたのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と。
マルコの福音書は、たびたび聖書の最初の書物「創世記」と重ねて、その類似性が語られます。創世記は「世の初め」が書かれ、マルコでは「福音の初め」が書かれているからです。そこで、今日の旧約聖書は天地創造の所が選ばれています。
神様はこの世を造り、水の中の生き物を最初に様々な生き物を造りました。それぞれが出来たときに、「良しとされた」といわれています。そして、最後に人を作りました。人を祝福し、すべてのものを従わせよと、言われました。そして食物を与え、「おつくりになったすべてのものをご覧になり、極めて良かった」といわれているのです。しかし、聖書は数ページ後にもう、人が神のことばを守らず罪を犯してしまい、神様は「なんということをしたのか」と嘆くのです。
そんな罪びとを救い出すために、神様はこの世にひとり子を送られました。それがイエス・キリストです。
神様が約束していた通り、準備するもの洗礼者ヨハネが荒野で人々に悔い改めの洗礼を受けさせていました。しかし、彼は神が送ったキリストではありませんし、彼もそれを知っていました。そこ得、イエス様がやってきて、洗礼を受けたのです。水の中から上がる時、天が裂けて霊が鳩のように下りました。そして、その言葉があったのです。
これは、ある意味で天地創造のやり直し。水の中からはじめあらゆる生き物が生まれ、最後に生まれた人には神の霊なる息が吹き入れられ、生きたものとなった。そしてすべてが創造されたのを見て、神は「極めて良い。はなはだ良い」といわれたのです。それが、荒野の脇の川で、水の中からイエス様が上がる時、霊が降ったという出来事で、繰り返されています。天地創造の後、アダムとイブは罪を犯し、神の元を離れ、人々の罪の歴史が始まりました。しかし、このイエス様のお誕生によって、その罪が取り除かれ、新しい命が生まれていく道が整えられることになっていきます。そのスタートが今日の出来事でした。イエス様の生き方、教え、過ごされた有様、十字架で身代わりに死んでくださったこと、死んでまで神の愛とゆるしを身をもって伝えられたこと、三日目に蘇られたこと、それらすべての出来事が、罪びとの人類の歴史をやり直し、作り替えるための出来事でした。これが、神様の救いの素晴らしいニュース、つまり、福音。マルコの初めの記述は、その「福音の初め」だったのです。
3.振り返り
私たちも、「あなたは大切な愛する子」「期待通りの子」といわれたかもしれません。あるいは、言われずに寂しく育ったかもしれません。しかしそれは、ある意味、しょせん罪人の人類歴史の一部にしかすぎません。それで、うれしくて自信をもって生きてきたとしても、それが重荷で苦しかったとしても、神様の本当の期待通りの生き方ではなかったのです。
そんなことはもう卒業しましょう。もちろん、親の愛には感謝しながらです。私たちは、先祖代々、親も含めて、そして自分も含めて、「生まれながら」けがれにみち、罪の中を生きてきた「罪人」なのです。たくさんの愛はあっても、完全な正しさや愛はありません。
神様の期待、神様の願い通りに生きるとは、何でしょうか? それは、神の本来の願い通りに生きること。天地創造の最初に、世界を創り、生き物を創り、最後に人を創り、世界万物を治めるように人を祝福したあの日、「はなはだ良かった」といわれた、あの日の、神様との関係、人と人の関係、そして人と自然界全てとの関係、それが神の愛で満ちている状態なのです。その日に戻るために、神様はイエスキリストをこの世に送られました。
罪人の社会の中で、一喜一憂するのはもうやめましょう。素晴らしいことやうれしいこともたくさんありますが、100パーセント神様の期待通りの生き方や世界というわけではないのです。どうしたら、そこに戻れるのでしょうか?それは、第二のアダムとして神様から送られたイエス様のことばや生き方を学び、それに従っていくことです。本当の親なる神の、愛のある、私たちの幸せのための期待に応える生き方です。
4.勧め
そんな書き始めで始まったマルコによる福音書は、どんなイエス様を紹介しているのでしょうか?一年かけて、毎週読みながら、たどっていく生活が始まりました。この書物に神の愛を見つけることが出来るでしょう。どうぞ、教会で、インターネットで、そしてお便りで一緒に学んでいきましょう。そして、学んだことを実践する生き方を始めましょう。ただ知っているとは違う、むつかしさや、気づき、素晴らしや意外なことがわかるはずです。その時、神様の声を聴くかもしれません。「これは私の愛する子。私の心に適う子だ」と。自分の人生や家庭、社会も世界も、ここから変わっていきます。そんないち年が神様に祝福されますように。
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