2023年4月30日日曜日

説教メッセージ 20230430

 

ヨハネ10: 1~10

1「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。 2門から入る者が羊飼いである。 3門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。 4自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。 5しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」 6イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。

7イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。 8わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。 9わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。 10盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。

説教 「どの門を入りますか?」 徳弘牧師 

1,オルガンの修理のとき…

先日、オルガンの修理をしていただきました。まずは、見積もりを兼ねて、出来る範囲の応急修理をしていただきました。

礼拝堂のオルガンは、タンスを横に置いたような形に、横にされ、掃除機で埃を吸い取り、少し部品が外され、掃除と応急の修理をしていただきました。見ている私たちに、どこがどう壊れているのか、詳しく説明してくださり、音が出る仕組みも説明してくださいました。大きな不調の原因は、リードと呼ばれる真ちゅうでできた薄い板が風の力で振動して、それが増えのように音が出る仕組みになっていますが、そこに埃が付いたり、錆が付いたりして、うまくいっていないというのが良くある原因とのことでした。リードは英語ではReedとかいて、もとは葦の意味があるようです。

さて、その時驚いたことがありました。足踏みオルガンやパイプオルガンのふいごのように、空気をためる袋があり、そこから出る風で笛やパイプを服用にならすのですが、このリードオルガンは、風を吹いて音を出すのではなくて、風を吸う形で音が出るというのです。この空気袋が少し破れていて、そこから風が漏れるのでうまく音が出ないし、風が足りずに一生懸命踏まないといけないので、ギコギコバタバタと音もしてしまうし、演奏者は大変だということでした。空気袋を見せながら、音を出しながら、説明してくださって、よく理解できたのです。

そして私が驚いたのは、風を送り笛を吹くように音が出ていると思い込んでいたのですが、このタイプのオルガンは、風を吸う勢いで音が出ているということでした。

思わず質問しました。「ということはこれは、呼吸の呼気ではなくて、吸気で音を出しているということですか?」と。すると先生は、「その通りなんですよ!」と答えてくださり、なんと驚きながら納得したのでした。考えてみたら、ハーモニカでも吹くときとすう時で同じ穴からでも出る音が違いますが、その、吸う時のような穴がたくさんあるのが、このタイプのオルガンで、パイプオルガンなど噴き出す勢いで音を鳴らすのとは違うということでした。

なんと、見た感じは似ていても、楽器の世界も色々あるんだなと、思わされた次第です。

どうして今日こんな話から始まるかというと、何事にも、入り口と出口があると、一週間考えさせられていたからです。今日の聖書は、イエス様がご自分のことを「門」とたとえられ、この門から入るものは救われるといわれたのです。どんな意味があるお話なのでしょうか?聖書を見ていきましょう。

2,聖書

 「はっきり言っておく」という飯田市で始まる話が二つ今日は続いています。この言葉は、お祈りの最後に私たちも唱える、「アーメン」という言葉と同じ言葉からできています。もっともだ、その通りだともいうニュアンスで、大切なことを言われるときに、イエス様はこの言葉で始められます。

 どんな大切な話だったのでしょうか?

 それは、いろいろな宗教指導者がいるが、誰に従っていくべきかということです。いろいろなことを言う人がいるが、羊の声を聞き分けて、羊のためにいる羊飼いではなくて、羊を食い物にする者もいるから気を付けるようにと、ファリサイ派の人たちのことを警告されました。

 それに続いて二つ目の話は、「私は羊の門である」と続きます。そして、「この門を通って入るものは救われる」、また、「門を出入りして牧草を見つけ」、「殺されるためではなくて、羊が命を受け、しかも、豊かに受けるため」であると、説明されました。

 これは、よい羊飼いが羊のために命を惜しまず捧げ、屠られ、犠牲となってくださり、羊たちは殺されず命を豊かに受けると、ご自分の十字架と復活による人々の救いについて説明をされているのでした。

3,振り返り 

 昨日はちょうど、東海教区の「わいわいワーク」があって、袋井市のデンマーク牧場に行ってきました。北欧のルーテル教会の宣教師が土地を買い、伝道や、酪農学校を始めたところですが、形が変わって、教会と社会福祉施設になっています。

 大きな牧場を生かした、老人施設や児童のための福祉施設、作業所、そして診療所もあります。私たちは高蔵寺教会から11名で出かけ、草刈りの奉仕をしました。ちょうど、こひつじ診療所の担当になり、武井先生ご夫妻とも親しく一緒に作業をし、昼食や交流もさせていただきました。

 食後は、お寺のような作りの教会を訪ね、そして牧場でヒツジやヤギ、馬や牛を見て、餌をあげたり、ソフトクリームをいただいたりもしました。そこにも、羊の門がありました。写真にあるような具合です。この門を使って出入りしたり、餌をあげたりもする様子でした。聖書の話を思い出しながら、その門をさすり、いろいろと考えました。

 「私は羊の門である」といわれたその門は、どんなもんなのか。ずっと、それを考えました。「この門から入れ」といわれたのです。ほかにもいろいろ門があるのか。それらはどんなもんなのか。

 確かに、いろいろな宗教や考え方があります。見てくれはとても良くて、入りやすいもんも、そうでない門もあるでしょう。たとえてみれば、もし看板があるなら、「病気が治る門」とか、「商売が繁盛する門」、「目の前の問題が解決する門」というのもあるかもしれません。そして、入場料を取る料金表があるかもしれません。

 私たちが見る、イエスさまというもんは、どんなもんでしょうか?そもそも、私たちはそれを通って、どこに入るのでしょうか?

 それは、何事にも、出口と入り口があるという最初の話とつながってきます。私たちは、一度、どこから出てきて、さまよい苦しみ生きてきました。しかし、本来いるべきところに戻って入っていく入り口、その門がイエス様なのではないかと、考えさせられたのです。かつて人類がいて、そこから追い出された門。そんなものがあるでしょうか?

 それは、旧約聖書の最初に出てくる、エデンの園の「門」かもしれません。神様が楽園を作り人を住まわせましたが、人は神様の言う約束を守らず、自分で善悪を決め、勝手に生きるようになりました。そこに互いの利害や欲がコントロールできない無法地帯になり、悪がはびこったのです。アダムとエバが約束を守らず、楽園を追放される物語は、そんな神秘的な人間の罪について、物語っていると理解してもよいでしょう。 神は、楽園から彼らを追い出し、「エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた」と、創世記の3章に伝えられていることです。

4,勧め

 何事にも出口と入り口があります。私たち人類は、神様が用意してくれた楽園を「出た」のです。その時の神を捨てて、人を愛し助け合うことができない生き方を選んだのが、私たちの罪の始まり。そして今まで綿々と続いている罪の歴史です。人の心の中にも、家庭や、国と国の間にもある、不公平やいさかい、紛争や戦争の歴史です。それを解決し、取り返すために、キリストは来られました。人々を教えるふりをして、「食い物」にするのではなく、自らの命を投げ出して身代わりの犠牲になり、そして、罪びとの心を震え上がらせ、改心に導く十字架にかかられました。それが終わりではなく、復活して弟子たちに現れ、彼らを許し、解放し、生まれ変わった心で生きる道を作ってくれたのです。

 それが、十字架と復活、それを自分のものにする洗礼ということになります。

だから、私たちは、この方を、この門を選び、これを通ってこそ、本来の人類の意味のある生き方、社会に戻っていくことができるのです。

 その楽園は、どこか西の国にあるのではありません。死んだ後の世界でもありません。いま、私の生き方の中から、それが始まり、広がっていくのです。それがキリストが言われた、神のご支配、神の国なのです。この門を選んで、いっしょに入っていきましょう。


2023年4月23日日曜日

説教メッセージ 20230423

よく間違える曲がり角。妻が目印の看板を教えてくれましたが、今度はそれを忘れて右往左往。そんな一週間でした。思い込みで青い看板を探していましたが、目印はピンク色のお菓子の看板でした。人生でもそんなことがありませんか?イエス様にあってもその方と気付かなかった弟子たちは、自分たちの思い込みと期待を押し付けていたのかもしれませんね。神様のご計画を知ると、見えるようになることがあります。一緒に考えましょう。

聖書の言葉 ルカ 24:1335

24:13ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、 14この一切の出来事について話し合っていた。 15話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた 16しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった17イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。 18その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」 19イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。 20それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。 21わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります 22ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、 23遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。 24仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」 25そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、 26メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 27そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

28一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。 29二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。 30一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。 31すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。 32二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。 33そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、 34本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。 35二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した


説教 「すると目が開いて…」 徳弘牧師 


1,探し物が見つからない

先週は何度も高蔵寺教会と復活教会を往復しましたが、復活教会に帰るときに道を間違える所があります。「勝川駅」のところで右に曲がると、県道に出れるので遠回りせず帰れるのですが、曲がるところを間違えて逆に遠回りになってしまいます。妻が言います。「このピンク色のお菓子の看板(桃ラング)で曲がるって覚えておくといいんじゃない?」と。そうだそうだ、と思いますが、昨日も忘れていました。「どの看板だったかなぁ?」いくら考えても思い出しません。「青い看板の不動産屋さんかな?」自信がありません。ゆっくり車を走らせながら、「ああ、このピンク色の看板だった!」とやっと気づきました。

一生懸命探しているのに、それがなかなか見つからないとき、それは、「青い袋に入れていたと思っていたのに、なんだ!ピンクの袋だった!」というようなものです。見つけた嬉しさとともに、なんと、自分が思い込みで間違えていたと、気付かされるのです。

今日の聖書は、イエス様に会っていながら、話し込んでもいながら、イエス様だと気付かなかったという出来事です。何が起こったのでしょうか?聖書を見ていきましょう。


2,聖書

 有名なエマオでの出来事で、復活祭の後よく読まれるところです。エルサレムから60スタディオン程離れたエマオという村に向かっていた二人の弟子です。ブラジルで使っていた一番新しい翻訳では、「約10キロほど離れたエマオという村」とわかりやすくなっています。10-12キロだといわれます。復活教会からなら北ならIiasuというショッピングセンターのあたり。高蔵寺教会から名古屋の方に来ると、ちょうど勝川駅のあたりになります。論じ合いながら歩いている二人にイエス様が近づいてきて、話に割って入ります。当のイエス様だと気付かない二人は、あんな一大事があったのにあなたは知らないのか?と驚いて説明します。イエス様が出来事の意味を聖書を引き合いに出しながら説明をされても、二人はこの方がイエス様だとまだ気づきません。

 日が傾いてきたので一緒に泊まってくださるように促し、夕食の席でお客さんの側のその人が急にパンを割いて分けられると、始めて、その方がイエス様で、確かに復活されたのだと、気付くのでした。しかし、そのとき、彼らにはその方がもう見えなくなっていました。そして彼らはエルサレムに急いで戻って11人の弟子たちに会って報告したのです。


3,振り返り 

 不思議に思うのは、どうして彼らはイエス様に会い、聖書から説明されても気づかなかったのでしょうか?という事です。聖書によると、「目は遮られていた」けれど、「目が開け(ひらけ)、イエスだとわかった」という事です。

 何が彼らの目を遮っていたのでしょうか。それが大切だと思います。なぜなら、今の私たちも似たことがあるからです。無くしたものや曲がり角の目印の探し物の事ではなくて、人生の探し物があるからです。

 思い通りに生きることができず、がっかりしたり、座り込んだり、無理をして体を壊したりすることがあります。それの意味を、その先を、または出口を、一番良い解決策を、いつも私たちは探しているといってもいいでしょう。何が彼らの目を遮っていたのかはとても大切なことです。それがわかると、私たちの目も開けて(ひらけて)、それを見つけることができるからです。

 二人の弟子はこう言いました。「この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者だった。でも祭司長や議員は十字架につけてしまった。あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていたのに」と。

 彼らユダヤ人は、過ぎ越しの祭りでモーセとともにエジプトの奴隷の地から脱出した日を、過ぎ越しの食事をしながら毎年祝っていました。今日の二人の弟子の言葉からわかることは、モーセのような指導者が、イスラエルを解放してくれると期待していたのです。彼らは、イエス様にモーセのようなそういう奇跡的な解放、脱出を願っていたのです。しかし、その人は十字架で死刑になってしまい、失望していたのです。

 その人間の側の勝手な期待、思い込みが、探し物を見つけられなかった理由、つまり、目が遮られていた理由だという事でしょう。

だから、イエス様はなんと物分かりが悪いのかと、嘆きながら言われたのです。「メシアは苦しみを受けて、栄光に入るはずだった。」と。十字架と復活のことです。そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明されたのです。

 イエス様は過ぎ越しの食事を弟子たちと共にされました。それが最後の晩餐です。しかし、この方は、モーセのように悪から解放し、悪から脱出するための方ではなく、悪を打ち滅ぼして新しいいのちに導く方だったのです。ローマを打倒してその支配から独立しても、依然人々は罪の奴隷のままです。モーセの時も、脱出して自由になりカナンの地に入りましたが、モーセ自身も罪を犯しカナンに入れず、その後ダビデ王が、そしてソロモン王は神のみ心に従いきれず、民も罪にまみれ、国は分裂し、他国に支配されていきます。ただ単なる政治的な独立や、敵を駆逐することは意味がありません。

十字架の上でも神の愛を貫き、敵をゆるし、悪と罪を滅ぼし、人々を新しく生まれ変わらせることが、イエス様の使命だったのです。

 探し物が見つからず失望したのは、違ったものを探して期待していたからでした。神様のご計画は、そんな簡単なものではなくて、苦難や絶望をも超えて、その先の大きなものだったのです。私たちの人生で、自分の勝手な期待で、その通りに思い通りならないこともあります。嘆き、神様に文句を言うときもありますよね、と教会で互いに語り合う事もあります。でも、その苦難や絶望も、後から思えば、新しい自分を生み出すために必要なものだったと、思えるものもあるものです。神様のご計画は、私たちにはわかりません。


4,勧め

 私たちは、大丈夫でしょうか?どうしたら、それを本当の意味で心にとめて、理解できるのでしょうか。二人の弟子たちはこうでした。

二人で議論しても分からず、イエス様から聖書の説明をされてもまだわかりませんでした。パンを割くという食事の時に、ようやくわかったのです。

これが、自分たちで話し合ってもダメで、説教を聞いただけでもまだわからず、聖餐式でそこにおられる復活のキリストに奇跡的に出会うという、私たちの礼拝の出来事の意味を見ることになります。ただの知的な学びではなく、思い込みの信仰でもなく、願い事だけの祈りでもなく、キリストご自身が主催し現れてくださる、礼拝の出来事を静かに、大切にしていきましょう。すると目が開ける(ひらける)かもしれません。

 神様の祝福が今週も豊かにありますように。

2023年4月21日金曜日

東海聖書セミナー 01  「教会」という言葉の再考

東海聖書セミナー 01  「教会」という言葉の再考

2023/04/22 

徳弘浩隆



1.   「大浦天主堂」って知ってますよね。「教会」以外の呼称…


(ア) 大浦天主堂、浦上天主堂。ところで、「天主」って何だろう?




   天主:神様。天の主。初期宣教師の中国語への翻訳から来ている。

1.   ポルトガル語のDeus(デウス、またはデウシュと発音)

2.   スペイン語ではDios(ディオスと発音)

3.   天主教、天主教徒:カトリック教徒


   大浦天主堂ウエブサイト:

  天主堂という呼び方は、現在ではあまり使われていません。教会という呼び方が一般的です。それでは、何故、大浦天主堂と呼ばれるのでしょうか。それは、大浦天主堂正面に書かれている「天主」という言葉から来ています。「天主」とは、中国で使われていた言葉で神様のことを指します。宣教師達は中国で使われていた、この「天主」という言葉を使って、自分たちの新しい教え、神さまのことを布教したいと考え、その思いが、大浦天主堂正面の「天主」という文字にこめられています。

  当時はまだカトリックという言い方は使われておらず、宗教法人としても、天主教団(公教団)という名称を使っていました。戦争前に建てられた教会は天主堂と呼ばれており、文化財の指定時に天主堂と掲載されたため、通称「天主堂」と呼ばれています。(現在は「カトリック◯◯教会」が本来の呼び方です)。

   長崎市観光サイト 教会巡りのその前に。見学のマナーと基礎知識:

  【長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産】教会巡りのその前に。見学のマナーと基礎知識 【長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産】:【教会とは】教会という言葉は「祈りの家、建物」を意味することが多いですが、「キリストを信じる人々の集い、共同体」も意味します。長崎県には、133の教会(主任・巡回教会など)があり、72の小教区を構成し「長崎教区」になっています。

  全国にはこのような教区が16ありますが、全国のカトリック信者の14%が集まる長崎は、大司教を中心とする「カトリック長崎大司教区」です。

  明治以降、初期の教会には正面に「天主堂」と書かれた額が掲げられていますが、これは神「デウス」の中国語表記「天主」を、外国人神父達がそのまま流用して「天主堂」としたものです。


   最初の宣教師はポルトガル語やスペイン語を話していた。彼らの日本語や日本文化への翻訳や適応が、最初の既成概念の元にもなっている。また、彼らの残した言葉が日本語になっているものも多い。

  カルタ、金平糖、カステラ、河童、おんぶ、ドチリナキリシタン、ヒーデス、バテレン、パドレ、イルマン、サンタクルス、オラショ、など。もちろんその後は、プロテスタントや戦後の宣教にもよるところが大きい。


(イ) 講義所

   大曽根講義所→ルーテル復活教会:1928年(昭3)、『大曽根講義所(その後「大曽根教会」と名称変更)』として名古屋市の大曽根地区で伝道を開始しました。





 

2.   教会ってなんだろう? 

(ア) 歴史的には:エクレシア

   Wikipedia

 キリスト教における教会(ギリシア語: κκλησία、ラテン語: ecclesia、英: church)とは、ギリシャ語の「エクレシア(κκλησία=国のために召集された集会)」の訳語で、「人々の集い」の意味から転じ、キリスト教においては神の呼びかけで人が集まるという意味(教会の字にある宗教の意味の「教え」は入っていない)となる。

  この語は「公同の教会」、または単位となる信仰共同体を指す意味で使われ、プロテスタントの教会ではキリスト教会という呼称・名称もよく使われる。また、「エクレシア」の訳語ではないが、信仰共同体である教会が所有する宗教施設(教会堂)を指す意味および名称として使われる場合もある。

1.   名称:キリスト教発生の初期から、「キリストの体(エフェソ 123節)」、「キリストの花嫁」、「真理の柱(テモテ一 315節)」、「聖霊の神殿(エフェソ 220-22節)」などと一般に呼ばれてきた。また教会は、女性としての表現が多かった。

2.   聖書からの由来:

(ア) 教会は、新約聖書のコイネー・ギリシア語の名詞「エクレシア(εκκλησία)」に由来する。後期ラテン語訳聖書のヴルガータでは、ecclesia と訳されている。古典ギリシア語において、「エクレシア(エックレーシア)」とは、規則に基づいて召集された市民会議または立法府などの「政治集会」を指していた。しかし、新約聖書などに使われるコイネー・ギリシア語では、ヘブライ語の「宗教会議」を意味する名詞「カーハール」の意味として使用されるようになった。実際に、コイネー・ギリシア語の七十人訳聖書では、カーハールを「エックレーシア」で訳する例が存在する(詩篇 2222節(マソラ本文)、2123節(七十人訳))。

(イ) このヘブライ語「カーハール」は、七十人訳聖書において名詞「シュナゴーゲー(συναγωγή)」で訳される箇所がある(民数記 163節、204節)。シュナゴーゲーは、通常にユダヤ教の会堂を意味する(マタイ 423節など)。しかし、シュナゴーゲーは、信者の集いとしての意味で使用される例がわずかに残されている(ヤコブの手紙 22節)。このことにより、教会という語彙は、シュナゴーゲーとして使用する場合、「信者の集い」と「典礼に使用する建物」と両方の意味を指すことがある。

② ※エクレシアという言葉から、ラテン系の言葉では今でもその語源の言葉を使っている。

   ラテン語:ecclesia  

   スペイン語 :Iglesia

   ポルトガル語:Igreja

   イタリア語:Chiesa

    ※面白いところでは、

   インドネシア語:Gereja

   キリシタン時代の日本:エケレジャ 

③ ちなみにChurchやKircheの語源は別

  現代語で〈教会〉を意味するchurch(英語),Kirche(ドイツ語)などが〈主に属するもの〉を意味するギリシア語to kyriakonに由来し,  église(フランス語),chiesa(イタリア語)が〈集会,招集されたもの〉を意味するギリシア語ekklēsiaから来ている。(株式会社平凡社世界大百科事典 第2版

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  church (n.) 古英語の cirice、circeは、「キリスト教の礼拝のために設けられた集会場所、キリスト教徒の集団、教会の権威や力」という意味で、原始ゲルマン語の *kirika から派生した言葉です(同源語には、古サクソン語の kirika、古ノルド語の kirkja、古フリジア語の zerke、中期オランダ語の kerke、オランダ語の kerk、古高ドイツ語の kirihha、ドイツ語の Kircheがあります)。

  これは、おそらく、ゴート語からギリシャ語の kyriake (oikia)、kyriakon doma「主の家」に借用されたもので、kyrios「支配者、主」から派生したもので、PIEルートの *keue-「膨らむ」(「膨らんだ」、つまり「強力な、力強い」)から派生したものです。

  ギリシャ語の kyriakon(形容詞)は、紀元300年頃から、特に東方で、キリスト教の礼拝の場所として使用されていましたが、この意味ではekklesiaやbasilikeよりも一般的ではありませんでした。多くのキリスト教用語がゴート語を通じて直接ギリシャ語からゲルマン語に伝わった例であり、おそらく西ゲルマン人が異教徒だった時代に使用されたものです。

  この言葉は、スラブ語にも取り入れられ、おそらくゲルマン語を通じて(古教会スラヴ語の criky、ロシア語の cerkovなど)。フィンランド語の kirkko、エストニア語の kirrikは、スカンジナビアからのものです。ロマンス語やケルト語では、ラテン語の ecclesiaの変種が使用されています(フランス語の égliseなど、11世紀)。

  (エティモンライン - 英語語源辞典

   

(イ) 参考になる書籍

   「教会とはだれか」~その意味と働き~ 石居正己/1997年 JELC西教区伝道奉仕部

 

   Laos講座 01 創刊号 「信徒として生きる」 江藤直純/2004JELC宣教師室



   教会はキリストの体 

 ー宣教第二世紀めをめざしてエフェソ書に学ぶー 

 JELC宣教百年記念事業室編 1992年




  

3.   「教会」という言葉には二つの意味がある

(ア) 「教会」の本来意味するもの

   「信徒の群れ」

   「建物」

(イ) ブラジルの「ルーテル・日系サンパウロ教会」の呼称はこうだった

   Igreja Evangélica de Confissão Luterana no Brasil, Congregação Japonesa



   Igreja Evangélica de Confissão Luterana no Brasil, Paróquia Nipo-Brasireila




   この方法だと、

1.   「日本福音ルーテル教会、高蔵寺集会」、または、

2.   「日本福音ルーテル教会、高蔵寺小教区」となるか。


(ウ) 他の言語に見られる二つの意味と言葉の使い分け

   教会:

   日本語 >「礼拝堂」と「信徒の群れ」←言い慣れない

   ポルトガル語 > Igreja(イグレジャ) と Congregação(コングレガッサオン)

   英語 > Church Congregation

(エ) Congregation

   Congregate()Congregar():集まる(日) <動詞>

   Congregation() Congregação() :集会(日) <名詞>

(オ) Community

   Community() Comunidade() :共同体

(カ) Parish

   ParishEParoquiapor:小教区(日)

   小教区:教区をさらに地域割りしたエリア(地区)。そこにあるのが「教会堂」

③ 考えてみると、

  教区、小教区   

  教区、地区、教会共同体、教会、礼拝堂・集会所

  教会、分教会

(キ) 整理すると…

ことば

本来の「教会」  

建物

信徒の群れ

日本語

〇教会

△教会

ポルトガル語

Igreja

Comunidade / congregação

英語

Church

Community / congregation

ドイツ語

Kirche

Gemainde

 

4.   見えてくること

(ア) 「教会」は建物(「教会堂」)の事だけではない

   「教会」=教会堂(建物)+信徒の群れ(共同体)

   「教会」は信徒の群れであり、それが集まるところが「教会堂」

   信徒の群れがより良い集会や信仰の養い、宣教ができるためなら、「教会堂」を移動してもよいはず。「『教会堂』死守」になる必要はない。

(イ) 「信徒の群れ」という「教会」共同体でもある

   教会という言葉の「教」に引きずられて、教え、学習するだけの場所ではない。

   もっとも、「異教の地」では、「教え学ぶ」ことが入口かもしれないが、生涯求道し続けて、すべて理解したら信仰を持つ、という事ではないはず

   「キリスト教多数の国」でも、日本の神道や仏教のように「習慣」や「習俗」になっている面が、良くも悪くもある。「迷信」の混入もあるだろう。ぼんやりと慣れ親しんできた礼拝や教会儀式、教義の意味を学び、自分のものにするのが「堅信式」。

  これも、国によっては、「成人式」という社会的な通過儀礼にもなっている面もある。「教会で堅信式を受けないと、教会で結婚式をしてもらえないから」SLEYのマータナキュビッサ大会(堅信教育キャンプ・ロック音楽や劇もあり、3万人が集まる福音大会)











   ブラジルの地方の教会は、選挙の投票所にもなる。いろいろな行事がある地域の集会所でもある。ブラジルの教会は、ドイツ移民がそのまま持ち込んだシステム。

   日系人は、県人会がある。宗教はそれぞれ違うから、宗教的な行事は各宗教団体が分担もしている。「キリスト教国」文化では、それらを「教会」という建物と、共同体が担ってもいる。

(ウ) 学習し、一生懸命信じぬく信仰の戦いの場所ではなくて、一緒に食べ飲み、泣き笑い、人生のいろいろなところを通過しながら、助け合い支え合って生きてゆく、共同体でもある。私たちの「教会」は?

(エ) 牧師や、教会の伝統で、それぞれ特色があるだろう。それは、否定しないし互いに尊重し合ってよいが。

   礼拝、学習、弟子訓練。それ以外はしない。

② 社会奉仕や社会活動

③ イベントや泣き笑い、飲食も

④ 教会の働きとして、幼稚園や保育園

⑤ 地域へ場所を貸している

⑥ こども食堂、地域食堂、学童保育、、様々


私は、どんなひととも、どんなことでも…











(オ) 建物としての教会の在り方は

   多くの日本の人の創造し期待する「教会」は白い壁で赤い屋根で上に十字架

   しかし、教会建築でも歴史的にはいろいろな時代や手法がある。特定の時期の特定の様式を、みんなは好む。

   日本各地の「城」も同じで、城跡に後に「復元」したものがほとんどで、オリジナルのものは皆のイメージする現在の「城」とはずいぶん違い、破風がないものや、平屋もあった。しかし、皆はあのイメージの城を期待し、それに合わせて建て直す。結果、歴史的に誤った認識を持たされてもいるものも多い。岐阜の一夜城は極端な例。

   宣教の手法として、皆が期待するイメージの建物が良いという事も言える。

⑤ 新来会者や外国人、足の不自由な方への対応なども。


(カ) もっと大きな意味での『教会』は

   宣教は、「伝道・教育・奉仕」とよく言われる

 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。マタイ4.23

   大きな意味での『キリスト教会』がそれを担ってきたともいえる

③ 分類すると、そして、今の社会で言うと

  1)伝道 → 教会の働き   :宗教法人

  2)教育 → 学校、幼児教育、:学校法人

  3)奉仕 → 社会福祉    :社会福祉法人

と、社会制度も充実し行政が担うようになったので、分業化した

④ 日本福音ルーテル教会では、それらがより良い宣教協力をして互いに助け合い補完し合うために、「ルーテル法人会連合」を作った。

⑤ 大きな意味での『教会』の社会への働きとしては、これら三つの分野を意識してもよいだろう。


5.   この講座で学び、今後それぞれ考えるきっかけにしましょう

(ア) 自分の「教会」の歴史で、「教会堂」と「共同体」はどういう経緯と特色を持ってきたか。

 それが、設立時と今でどう違うか?

 いま、「共同体」の内部と、地域両面で、何が大切にされ、求められているか。

(イ) 二つの意味がある教会の、「教会堂」に固執して「共同体」が弱まってはいないか。

(ウ) 二つの意味がある教会の、「共同体」が大切だとして、「教会堂」をなおざりにしていないか。

(エ) 「建物としての教会」に依存しなくてよいとして、インターネット礼拝や聖餐式についての理解の違いで衝突したり、躊躇してはいないか?

 ①昔流行した:TV伝道、TV礼拝、VHSビデオ礼拝、ラジオで礼拝

 ②インターネット伝道:教会へ行く前や、幼稚園選びで当たり前

 ③コロナもあって:ネット中継礼拝(一方向)、ネット参加礼拝(双方向)、メタバースなど

(オ) 自分の「教会」の牧師先生で、何が養われているか。歴代の牧師先生それぞれに特色があったでしょう。自分たちの「共同体」は、何を学び育てられてきたか。それが、そのままなのか、歴代の牧師で多種多様な養いを夫々受けて来たか。これから、どういう面を養い補強したいか。

(カ) 聖書や歴史のなかで、「教会」はどのように位置づけられ、変遷してきたか。

(キ) 教会とは、「何か」そして「誰か」。そして、これからどうしてゆくか。