2023年4月8日土曜日

復活祭メッセージ 20230409

聖書の言葉 ヨハネ 20: 1~18

20: 1週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。 2そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」 3そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。 4二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。 5身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。 6続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。 7イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。 8それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。 9イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。 10それから、この弟子たちは家に帰って行った。

11マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、 12イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。 13天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」 14こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。 15イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」 16イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。 17イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」 18マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

説教 「走って行って告げたもの、見たもの」 徳弘師 

1,復活祭…

今日は、いよいよ復活祭です。そして、復活教会では、久々に礼拝堂で礼拝ができるうれしい日になりました。文字通り「復活教会「が「復活」してゆく日です。復活教会の皆さんのお捧げものや祈り、関係者のご努力などに感謝し、色々ありましたがすべてを導いてきてくださった神様に感謝しましょう。

さて、そういいながらですが実は、教会は建物ではありません。建物でもあると同時に、本質的には、「教会」は私達「キリスト者の集まり」であり、「共同体」のことです。また、私たちの集まりは、それぞれが勝手に生きているのではなくて、「キリストを頭(かしら)にして、一つの体であり、それが教会である」とも聖書は言っています。今月から始まる東海教区聖書セミナーでも、色々な角度から「教会とは何か」を学びますから、是非ご参加いただきたいと思います。

ところで、復活教会は耐震補強工事もしましたが、それは基礎部分や柱や梁の部分の補強も含んでいました。では、建物ではない方の教会である「私たち」も、今日確認し点検せねばなりません。私たちの信仰、私たちの人生の改修工事は大丈夫でしょうか?何が大切なのでしょうか?そのことを、復活祭に、学んでいくことが大切です。聖書に聞いていきましょう。

2,聖書

 聖書は何度読んでも新しい発見があります。というと聞こえが良いかもしれませんが、じつは、まだまだよく読めていなかったのかもしれません。

 今日の聖書での再(?)発見は、墓を訪ねて驚いて走って帰ってきたマグダラのマリアの報告を聞いて、ペトロとヨハネが墓へ走って行ったという事。そして一緒に走っていったけれどペトロよりヨハネが足が速くてペトロは遅れて到着したことです。

 マリアが走る姿が、そしてペトロとヨハネが競争するかのように走り、その差が広がってゆく姿を想像して、クスっと笑いながら、しかし、生き生きとした情景が目に浮かんできたりもしました。

 彼らは、どうして走ったのでしょうか?それは、大変な一大事があったからです。それは、イエス様の墓の蓋がこじ開けられ、なかは空っぽだったからです。マリアは最初にそれを見つけ、驚き、途方に暮れ、ペトロ達に知らせに走りました。そこまでしたマリアには、一大事だったのです。

 そしてその知らせを聞いた二人の弟子も、ビックリして、我先にと走ったのでした。彼らにも驚くべき、一大事だったのです。

 墓についたヨハネはまだ墓穴には入れず、遅れて息を切りながら到着したペトロが先に入ります。続いてヨハネも入ります。彼らも目にしました。確かにイエス様の亡骸がないことを。それを告げたマリアの言葉を信じたのです。

 いろいろな解釈が試みられるところですが、彼らはまだ事の真相を理解していません。「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった」と続くからです。彼らは困惑と絶望のまま、帰ってゆきます。

事の真相を最初に理解したのは、墓に残って泣いていたマリアでした。遺体のあった方に二人の天使が見え、言葉をかけられ対話していると、もう一人の声を聴きます。言葉の方を振り返るとそこにイエス様がおられたのです。復活の主に最初に会い、それを理解したのはペトロでもヨハネでもなく、このマリアでした。

3,振り返り 

私たちは、教会に何をしに来て、何を見ているでしょうか?一番大切なものが見え、理解しているでしょうか?どうしたら、その一番大切なものを見ることができ、理解できるでしょうか?それは、マリアがどのようにして復活の主に会いそれを理解できたかという事が答えです。彼女は、イエス様の亡骸があったところを見ていました。しかし、復活した主の声はそこから聞こえたのではありませんでした。園丁と思った主に言ったのは「私が亡骸を引き取ります」でした。マリアは「振り向くと」とありますから、墓の外におられた人に気づき、声をかけられ対話する中で、その方が復活の主であるとようやく理解できたのです。

 私たちも、うまくいかないこと、頭の痛いことがあります。ようやくうまくいきかけて信頼し安心していたのにもう一度崩れ去るときがあります。走って、叫んで、必死に探し、それが無いと呆然とすることがあります。もう希望は失せても、せめてその思い出を手に入れて、その思い出を大切に生きていこうと、それにすがりつきたい時もあります。マリアはそうだったのです。

マグダラのマリアはこんな人生でした。7つの悪霊に取りつかれて絶望を生きていましたが、イエス様に悪霊を追い出してもらい、問題が解決して嬉しく生きていたけれど、尊敬し慕い従っていたイエス様が十字架でなくなるという二度目の絶望を味わいます。そしていまは、その亡骸さえなくなるという三度目の絶望でした。どこに希望があるのでしょうか?

 そんな彼女に、キリストはその反対側の出口、外から声をかけ、180度向きを変えさせます。そこに、新しい本当の希望があるのです。そこに墓の出口があり、今までとは違う、新しい本当の命の生き方を導く復活の主に従う生き方がそこにありました。初めて、キリストの教えと癒し、十字架と復活、それを信じて生きるものの、新しい生まれ変わりという福音を理解したのです。それが無ければ、ただのイエス様のファンで終わってしまいます。私たちの生き方も、その信仰も、そこに引き上げられなければなりません。

4,勧め

 先週、高蔵寺教会に5人の新しい方が来てくれました。頼まれてブラジル向けに日本語礼拝ビデオを時折お送りしていますが、それをご覧になった移民のクリスチャンの方が、一時帰国で日本に住むお子さん夫婦達を連れて泊りがけで来てくれました。礼拝と食事を共にし、皆と親しく交流しうれしい時間でした。日本語がまだ上手でないブラジル人の一人はさっそく私の日本語講座に参加してくれるようになりました。

 証集をいただき、その中の彼女の証を読み、感銘を受けました。終戦で生まれた今の北朝鮮から引き揚げてきたけれど、日本で安心できる居場所が見つからず、ブラジルへ移民しますが、たくさんの苦労をし、移民先のアマゾンの地で神様に出会います。彼女を動かした言葉は、こうだったそうです。「失望したければ、人を見なさい。絶望したければ、自分を見なさい。希望を持ちたければ、永遠なるお方を見なさい。」

人を見たら失望する、自分を見たら絶望するのです。希望は神様にある、と私たちも今日、背中越しに声をかけてくれる方の方を振り返りたいと思います。

復活の主の祝福がありますように。新しいいのちを共に生きましょう。

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牧師コラム 十字架の道行き 




カトリック教会では、「十字架の道行き」という12の像や絵を見ながら、黙想し祈る信心行があります。私たちにはそれは「行」ではありませんが、参考にと教会に飾り受苦日礼拝をしました。そして、その続きの復活の出来事も、額入りの絵を作っておいてみました。墓穴を覗くマリアと、空虚な墓に驚く弟子たち。しばし、黙想してみませんか?


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