2023年4月23日日曜日

説教メッセージ 20230423

よく間違える曲がり角。妻が目印の看板を教えてくれましたが、今度はそれを忘れて右往左往。そんな一週間でした。思い込みで青い看板を探していましたが、目印はピンク色のお菓子の看板でした。人生でもそんなことがありませんか?イエス様にあってもその方と気付かなかった弟子たちは、自分たちの思い込みと期待を押し付けていたのかもしれませんね。神様のご計画を知ると、見えるようになることがあります。一緒に考えましょう。

聖書の言葉 ルカ 24:1335

24:13ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、 14この一切の出来事について話し合っていた。 15話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた 16しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった17イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。 18その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」 19イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。 20それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。 21わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります 22ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、 23遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。 24仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」 25そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、 26メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 27そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

28一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。 29二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。 30一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。 31すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。 32二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。 33そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、 34本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。 35二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した


説教 「すると目が開いて…」 徳弘牧師 


1,探し物が見つからない

先週は何度も高蔵寺教会と復活教会を往復しましたが、復活教会に帰るときに道を間違える所があります。「勝川駅」のところで右に曲がると、県道に出れるので遠回りせず帰れるのですが、曲がるところを間違えて逆に遠回りになってしまいます。妻が言います。「このピンク色のお菓子の看板(桃ラング)で曲がるって覚えておくといいんじゃない?」と。そうだそうだ、と思いますが、昨日も忘れていました。「どの看板だったかなぁ?」いくら考えても思い出しません。「青い看板の不動産屋さんかな?」自信がありません。ゆっくり車を走らせながら、「ああ、このピンク色の看板だった!」とやっと気づきました。

一生懸命探しているのに、それがなかなか見つからないとき、それは、「青い袋に入れていたと思っていたのに、なんだ!ピンクの袋だった!」というようなものです。見つけた嬉しさとともに、なんと、自分が思い込みで間違えていたと、気付かされるのです。

今日の聖書は、イエス様に会っていながら、話し込んでもいながら、イエス様だと気付かなかったという出来事です。何が起こったのでしょうか?聖書を見ていきましょう。


2,聖書

 有名なエマオでの出来事で、復活祭の後よく読まれるところです。エルサレムから60スタディオン程離れたエマオという村に向かっていた二人の弟子です。ブラジルで使っていた一番新しい翻訳では、「約10キロほど離れたエマオという村」とわかりやすくなっています。10-12キロだといわれます。復活教会からなら北ならIiasuというショッピングセンターのあたり。高蔵寺教会から名古屋の方に来ると、ちょうど勝川駅のあたりになります。論じ合いながら歩いている二人にイエス様が近づいてきて、話に割って入ります。当のイエス様だと気付かない二人は、あんな一大事があったのにあなたは知らないのか?と驚いて説明します。イエス様が出来事の意味を聖書を引き合いに出しながら説明をされても、二人はこの方がイエス様だとまだ気づきません。

 日が傾いてきたので一緒に泊まってくださるように促し、夕食の席でお客さんの側のその人が急にパンを割いて分けられると、始めて、その方がイエス様で、確かに復活されたのだと、気付くのでした。しかし、そのとき、彼らにはその方がもう見えなくなっていました。そして彼らはエルサレムに急いで戻って11人の弟子たちに会って報告したのです。


3,振り返り 

 不思議に思うのは、どうして彼らはイエス様に会い、聖書から説明されても気づかなかったのでしょうか?という事です。聖書によると、「目は遮られていた」けれど、「目が開け(ひらけ)、イエスだとわかった」という事です。

 何が彼らの目を遮っていたのでしょうか。それが大切だと思います。なぜなら、今の私たちも似たことがあるからです。無くしたものや曲がり角の目印の探し物の事ではなくて、人生の探し物があるからです。

 思い通りに生きることができず、がっかりしたり、座り込んだり、無理をして体を壊したりすることがあります。それの意味を、その先を、または出口を、一番良い解決策を、いつも私たちは探しているといってもいいでしょう。何が彼らの目を遮っていたのかはとても大切なことです。それがわかると、私たちの目も開けて(ひらけて)、それを見つけることができるからです。

 二人の弟子はこう言いました。「この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者だった。でも祭司長や議員は十字架につけてしまった。あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていたのに」と。

 彼らユダヤ人は、過ぎ越しの祭りでモーセとともにエジプトの奴隷の地から脱出した日を、過ぎ越しの食事をしながら毎年祝っていました。今日の二人の弟子の言葉からわかることは、モーセのような指導者が、イスラエルを解放してくれると期待していたのです。彼らは、イエス様にモーセのようなそういう奇跡的な解放、脱出を願っていたのです。しかし、その人は十字架で死刑になってしまい、失望していたのです。

 その人間の側の勝手な期待、思い込みが、探し物を見つけられなかった理由、つまり、目が遮られていた理由だという事でしょう。

だから、イエス様はなんと物分かりが悪いのかと、嘆きながら言われたのです。「メシアは苦しみを受けて、栄光に入るはずだった。」と。十字架と復活のことです。そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明されたのです。

 イエス様は過ぎ越しの食事を弟子たちと共にされました。それが最後の晩餐です。しかし、この方は、モーセのように悪から解放し、悪から脱出するための方ではなく、悪を打ち滅ぼして新しいいのちに導く方だったのです。ローマを打倒してその支配から独立しても、依然人々は罪の奴隷のままです。モーセの時も、脱出して自由になりカナンの地に入りましたが、モーセ自身も罪を犯しカナンに入れず、その後ダビデ王が、そしてソロモン王は神のみ心に従いきれず、民も罪にまみれ、国は分裂し、他国に支配されていきます。ただ単なる政治的な独立や、敵を駆逐することは意味がありません。

十字架の上でも神の愛を貫き、敵をゆるし、悪と罪を滅ぼし、人々を新しく生まれ変わらせることが、イエス様の使命だったのです。

 探し物が見つからず失望したのは、違ったものを探して期待していたからでした。神様のご計画は、そんな簡単なものではなくて、苦難や絶望をも超えて、その先の大きなものだったのです。私たちの人生で、自分の勝手な期待で、その通りに思い通りならないこともあります。嘆き、神様に文句を言うときもありますよね、と教会で互いに語り合う事もあります。でも、その苦難や絶望も、後から思えば、新しい自分を生み出すために必要なものだったと、思えるものもあるものです。神様のご計画は、私たちにはわかりません。


4,勧め

 私たちは、大丈夫でしょうか?どうしたら、それを本当の意味で心にとめて、理解できるのでしょうか。二人の弟子たちはこうでした。

二人で議論しても分からず、イエス様から聖書の説明をされてもまだわかりませんでした。パンを割くという食事の時に、ようやくわかったのです。

これが、自分たちで話し合ってもダメで、説教を聞いただけでもまだわからず、聖餐式でそこにおられる復活のキリストに奇跡的に出会うという、私たちの礼拝の出来事の意味を見ることになります。ただの知的な学びではなく、思い込みの信仰でもなく、願い事だけの祈りでもなく、キリストご自身が主催し現れてくださる、礼拝の出来事を静かに、大切にしていきましょう。すると目が開ける(ひらける)かもしれません。

 神様の祝福が今週も豊かにありますように。

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