変容日 マルコ9:2-9 列王下2:1-12a 2コリント3:12-18
1)顕現節の最終主日は、主の変容日として守られる。福音書の記述において、この出来事
は主の働きの山となっており、この前後から主ご自身によって弟子たちに受難が予告さ
れる。顕現節の連続日課は一時中断し、復活のサイクルに入り、連続日課は三位一体主
日ののちに続くことになる。
2)主イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけを連れて山に登られた。この三人はヤイ
ロの娘の復活の際にも(マルコ5:40) 、ゲッセマネの園でも(マルコ14:33)、主の身近
かについて行くことができ、主イエスの神秘の光に触れることを許されたのであった。
山上の出来事は皆受け身の形で書かれているが、それは神ご自身が主体となって、イエ
スの天的な存在の様を三人の弟子たちに示されたことを示唆している。イエスの御姿が
変わり、真っ白に輝いたのは、モーセの顔の光のように(出34:29)神の臨在に照らしだ
されたことを示している。雲もまた神臨在のしるしである(民数9:15他) 。雲の中から
の声は、神の呼びかけにほかならない(出24;16)。
3)イエスの姿が「変わった」(メタモルフォオー)という時に用いられている語は、昆虫
の変態を現すメタモルフォーゼという言葉にも用いられている。しかし、ギリシャ神話
では神が人に姿を変える変身を指していた。ここではもちろんそのような変化や変身で
はなく、イエスが本来の天的存在としての輝きを示されたことを現している。「現れ」
たという語は聖書の神顕現や幻に用いられる。主の姿が変わっただけでなく、エリヤが
モーセと共に現れて、主イエスと語り合っていた。エリヤは主の日の前に神によって遣
わされる者(マラキ3:23) である。エリヤはすでに来たが、人々に好きなようにあしら
われた(13節) と主は言われた。それは直接には洗礼者ヨハネを指している。先駆者が
そうであるように、メシア自身もまた苦しみを重ね、辱めを受ける。天的な輝きに包ま
れた光景は現実の姿にも関わらず、神のもとで起こっていることを示したのである。
4)ペトロは我にもあらず、三つの仮小屋を建てて、いつまでも主イエスとエリヤ、モーセ
に留まってもらおうと言うが、その姿を留めておくことはできない。雲が彼らを覆って
しまった。恐らくは弟子たちもまた、神の臨在を示す雲の中に包まれたのである。そし
て、「これは私の愛する子。これに聞け」というみ声を聞いた。マルコ1:12の洗礼の時
に主ご自身が聞かれた声と同じように、イエスが神に愛されるみ子であることを宣言す
るが、違った点は弟子たちがこのお方に聞くように求めていることである。それは単に
耳で聞くとか尋ねるというのでなく、聞き従うことを求めている。受難の時が近づいた
ことを予期して、神はみ子の正体を明らかにし、このお方こそが聞き従うべき主である
ことを示された。しかし、主はこれを直ぐには口外しないように戒められた。何重にも
驚くべき事実であったからである。主の復活ののち、彼らは初めてその姿を見たことが
決して一時的な夢や幻でないことを確信し、主の再臨の約束をも望み見たに違いない。
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