今週の聖書の言葉
福音書 マルコ1:14~20(新61)
ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
説教「すぐに…」 徳弘浩隆師
1.
大統領の机の上の書類の山…
アメリカの大統領の就任式も無事に終わったようですね。国民の意見は二つに分かれ、暴力事件にもなり、むつかし出発だと思います。TVのニュースで報道されていましたが、皆さんもいろんなことを考えさせられたでしょう。私が印象に残ったのは二つでした。「机の上」と「紫色の服」です。
就任直後の執務室の様子は、机の上には黒いファイルが積み上げられ、いろんな法案や大統領令にさっそくサインをしたそうです。山積の課題に「すぐに」着手したというアピールもあったのでしょう。
副大統領の紫色の服にも注目が集まったそうですね。民主党と共和党は赤と青で色分けされますが、二分した国を相互理解と対話、そして協調へまとめていくために、赤と青の色を合わせた紫の服だったのではと、憶測を呼びました。もともといわゆる黒人や女性の政治参加の運動でも紫色が使われたそうですが、そこに込めたメッセージはとても大切なことでしょう。
それらは、何かが変わった。何かに一緒に取り組もうという、メッセージだったのかもしれません。
2.
さて、今日の聖書のメッセージはどうでしょう?私たちに、何をアピールし、何を語りかけているのでしょうか?これも大きな転換点、変わり目でのイエス様の大きなメッセージでした。
人々が期待していた洗礼者ヨハネが捕らえられました。他国の侵略や支配で国は荒廃していた希望の無い時に、偉大な預言者かと噂されるヨハネでしたが王に捕えられてしまったのです。人々はもう一度、絶望につき落とされました。そんななか、イエス様は公の活動を始められたのです。準備が出来て、おぜん立てをされていて、いよいよ登場というのではなく、一番むつかしく、人々が絶望しているときにです。その時の第一声も意外な言葉でした。慰めや勇気づける言葉ではなく、「時は満ち、神の国は近づいた」というのです。そして「悔い改めで福音を信じなさい」と。そしてすぐ、ガリラヤ湖のほとりで出会ったシモンとアンデレを、またヤコブとヨハネに呼びかけ、弟子として従わせました。これが、マルコが伝えるイエス様の最初の働きでした。
私が心に残ったのは二つのことでした。一番良いタイミングではなく、最悪の状態ともいえるときに、イエス様は始めたこと。そして、最初の二人の弟子たちは「すぐに」従い、次の二人にもイエス様は「すぐに」呼び止めたという言葉です。なぜ、すぐに従うことが出来たのでしょうか?
3.
振り返り
私たちが何かを始めるとき、時を見計らうでしょう。最高のタイミングで始めたほうが良いと思います。しかし、最悪の、人々が絶望に再度陥らされた時にイエス様は始められました。今日の聖書は教えます。人間が考える一番良いタイミングは、神様の目から見たら一番良いタイミングではないということを。
私たちは、順風満帆の時に傲慢になり、自信家になり、人の声を聴きません。すべてうまくいくと、考えるからです。それは、神様から見たら、「最悪のタイミング」なのです。逆に、人の目から見たら最悪のタイミング、その時、私たちは自信もやる気もなくすかもしれませんが、十分考え、自分を振り返り、人のアドバイスを謙虚に聞き、神様に頼ります。その準備が、最悪の事態や挫折によってできているからです。それが実は、神の目から見たら「最高のタイミング」なのかもしれません。
もうひとつ、「すぐに」という言葉です。マルコの福音書は口述筆記でまとめられた部分が多いように見受けられるという研究者の分析もありますので、その言い回しかもしれません。マルコの福音書では42回出てくるそうです。しかし、人々が絶望の中にいるときに働きを始められたイエス様の呼びかけに「すぐに」従った漁師二人も、その二人を弟子にした後に出会った別の二人にも「すぐに」声をかけられたイエス様も、「最高のタイミング」だったからかもしれません。
「神の国は来た」というのは、どこかに「具体的な国」があるわけでも、死んだ後の「天国」を指しているのではありません。イエス様が語られる「神の国」というものは、「神様のご支配(のなかにある)」という意味ですから、「あなたも、神様の御手の中にいる。それがはじまった」という意味で読むところです。絶望の中にこそ、希望があるのです。尊敬するカトリック教会の森一弘司教は本の中でこういわれます。
ますます希望から離れてしまったと思える状況の中で、イエス
は「時がみちた」と叫ぶのです。悲しみや苦しみ、あきらめが深まっていくところに、「救いの時がみちた」 とイエスが告げるのです。それは人間の常識をこえています。人間の常識では了解しがたいことです。それでも、こういうことはできるのではないでしょう
か。人間がいっさいの人間的希望、人間的支えを失えば失うほど、神に近くなるのだと。悲しみや苦しみが深まれば深まるほど、神のそばに近づいていくのだと。人間はいっさいをはぎとられ、赤裸々になればなるほど、神だけがおおいになっていくのだと。人間の苦しみの真っただ中に、わたしたちの力、わたしたちの恵み、わたしたちの救いとしてのイエスが現存され、わたしたちを支えていかれるのです。」(森一弘. 「人の思いをこえて」 女子パウロ会 2013年)
4、勧め
今、世の中は新型コロナウイルス感染症で大変です。私たち一人一人の生活も、教会の働きも、影響を受けています。順風満帆ではなく、人類皆が一緒に試されている時でもあるでしょう。むつかしさや絶望の時、それは、神様の目から見たら、大切な時です。神さまの呼びかけを聞いて、「すぐに」応えることが願われています。あなたは、何を始めますか?何を変えて生きていきますか? 神様の祝福がありますように。
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風の谷より:キリスト教・聖書ワンポイント講座 「異国の民を憐れむ神」
顕現後第3主日の福音書ではイエスさまの宣教の第一声「時は満ちた、神の国は近づいた(御手の中に来た)、悔い改めて福音を信ぜよ」から4人の弟子たちの召出です。そして第一日課はヨナ書3章です。
まずヨナ書ですが、預言者というよりは預言者物語という感じです。そして主題は異邦の民ともいうか敵対者の神の憐れみです。前の預言書がオバテヤ書で、敵対するエドム人(エサウの子孫、ギリシヤ音訳でイドマヤのヘロデ王はエドマヤ人です)に対する怒りを表しています。この預言書を並べることでバランスを取っています。
ところで、主はヨナを大きな町ニネベへ遣わしました。ニネベはイスラエルを滅ぼした大帝国です。その首都へとヨナは派遣されましたが、ヨナは全ての人を救おうという神の慈しみがわからず、逃げ出してしまいます。地中海の西の果てタルシェへと。そこでヨナは嵐の中、海に放り出され、そのために備えられた大きな魚に飲み込まれ、神の慈しみにふれ、悔い改めて祈ります。悔い改めの祈りは福音を伝える者にこそ必要なのです。シャローム!(三木久人)
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集まれなくてもZOOMで学びや祈祷会を! 社会も教会も変革をし、新しいあり方を求めて
残念ですが、新型コロナ対策で週日の集会をお休みにしています。感染急拡大で病院の満床率も上がり、新型コロナでなくても診療や入院できなくなりそうですから、暫く地域の皆と協力して、外出や集会を控えましょう。自分のため、教会の仲間のため、地域の皆のためです。期待されるワクチン接種もすべての人が規定通り受けるのは年末までかかるともいわれています。
教会も、今まで通りの在り方以外に、何かを変え、何かを始めることも大切でしょう。週日の集会の代わりに、お便りやインターネットでの集会も試行しています。パソコンだけでなく、スマートフォンやタブレットからでも手軽に参加できます。
このソフトの経験者の多い「日本語教室」や「聖書と英語の会」で始めました。そして岐阜の「聖書を読んで祈る会」はご自宅の方と連絡を取りながら、設定をしてみたりしました。今後、他の集会にも広めていけたらと思います。技術的応援も致します。教会の他集会でZoom開始したい方にも手伝います。
Zoomがむつかしい方のこともちゃんと覚えています。学習会の模様を録画してYoutubeやDVDで見て学んでもらったり、「シルバークラブ/老人会」にはお便りで学びと交流も考えます。少しお待ちください。
https://officepastorgabriel.blogspot.com/
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