灰の水曜日 ヨエル2:12-18 2コリント5:20-6:2 マタイ6:1-6(16-21) A
1)灰の水曜日は、四旬節の最初の日である。復活の前40日(主日を含めないで)の間は、
もともとは復活祭の際に洗礼を受ける人たちの準備の時として、また古くから主の復活
の祭りに備える慎みの期間として守られた。悔い改めのしるしとして、前年の枝の主日
に用いられた枝の灰をつけるような習慣もあった。そして自分が灰であり、灰に戻るこ
とを覚えたのである。日課は長い形では括弧の中も含まれる。
2)マタイ6 章の1-6 節は施しをする際の心得が、ここでは略された7 節以下の祈りについ
て、16-18 節は断食をする場合、19-21 節は天上に富を積むようにという勧めが語られ
ている。施し、祈り、断食はファリサイ人たちが敬虔の生活の表現として重んじたこと
であり、キリスト教会も大切にしたことである。そしていずれもが、四旬節に守られた
ことに関連する。しかし、敬虔な行為がなされるのは人々に見てもらうためでなく、神
に喜ばれるためである。ファリサイ人たちの中には、律法を守り、善行を積んでいるこ
とを、あたかも自分の信仰の拠り所としているような場合があった。過ちを犯さず、週
に二度も断食し、収入の十分の一を捧げていることで安心して、神に感謝の祈りをして
いた( ルカ18:11,12) 。しかし、自分がどれほど苦行をしたか、善行を積んだかではな
く、相手をどのように援助できたかを考えてゆかなくてはならない。節制するのは、そ
れ自体が目的ではなく、朽ちない冠を得るためにほかならない(1 コリント9:25) 。
3)主は天に宝を積めといわれた。しかし、天の宝は、私たちの評価で決まるのではない。
自分たちがこれほど大きなことをしたと思っていても、神の眼には宝ではあり得ないこ
ともある。断食したり、衣を裂いたり、粗布を着たり、灰の上に座ったり、被ったりす
ることは、確かに旧約時代からの悔い改めのしるしであった。しかし肝心なことは、外
的な行為をすることではなく、自分の心を引き裂き(ヨエル2 章) 、神に赦しを受ける
ことなのである。
4)神は隠れたことを見ておられる。私たちがどのような心で、またどのような態度をもっ
て、事をなしているかが問題なのである。イエスが山上の説教の中で教えられたのは、
外面的な行為が自分を高めるというのではない。それがどれほど有用であったかでもな
い。人に見られる義=善行が問題なのではない。確かに主は、献げ物も施しも大事にさ
れた。祈ることも教えられた。自ら断食もされた。しかし、弟子たちに断食を求めず、
花婿が一緒にいるときにお客は断食しない(マタイ9:15) と言われた。問題は行為自体
でなく、どういう動機で何のためになされるかなのである。しかも人に見せびらかすた
めでないし、自分の功績を積むためでもない。神関係の中で自らの心の現れとしてなさ
れる。宗教改革のとき、ルターが断食を教会の多くのしるしの一つに数えている箇所も
ある。古代のキリスト者たちが、復活日の前に守った断食が、四旬節の間の節制として
延長された。しかし、主要なことはそれぞれの内的な神との関係にほかならない。
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