2021年1月30日土曜日

主日日課の学び(石居正巳先生) 灰の水曜日  マタイ6:1-6(16-21)

 灰の水曜日  ヨエル2:12-18  2コリント5:20-6:2 マタイ6:1-6(16-21) A

1)灰の水曜日は、四旬節の最初の日である。復活の前40日(主日を含めないで)の間は、

 もともとは復活祭の際に洗礼を受ける人たちの準備の時として、また古くから主の復活

 の祭りに備える慎みの期間として守られた。悔い改めのしるしとして、前年の枝の主日

 に用いられた枝の灰をつけるような習慣もあった。そして自分が灰であり、灰に戻るこ

 とを覚えたのである。日課は長い形では括弧の中も含まれる。

2)マタイ6 章の1-6 節は施しをする際の心得が、ここでは略された7 節以下の祈りについ

 て、16-18 節は断食をする場合、19-21 節は天上に富を積むようにという勧めが語られ

 ている。施し、祈り、断食はファリサイ人たちが敬虔の生活の表現として重んじたこと

 であり、キリスト教会も大切にしたことである。そしていずれもが、四旬節に守られた

 ことに関連する。しかし、敬虔な行為がなされるのは人々に見てもらうためでなく、神

 に喜ばれるためである。ファリサイ人たちの中には、律法を守り、善行を積んでいるこ

 とを、あたかも自分の信仰の拠り所としているような場合があった。過ちを犯さず、週

 に二度も断食し、収入の十分の一を捧げていることで安心して、神に感謝の祈りをして

 いた( ルカ18:11,12) 。しかし、自分がどれほど苦行をしたか、善行を積んだかではな

 く、相手をどのように援助できたかを考えてゆかなくてはならない。節制するのは、そ

 れ自体が目的ではなく、朽ちない冠を得るためにほかならない(1 コリント9:25) 。

3)主は天に宝を積めといわれた。しかし、天の宝は、私たちの評価で決まるのではない。

 自分たちがこれほど大きなことをしたと思っていても、神の眼には宝ではあり得ないこ

 ともある。断食したり、衣を裂いたり、粗布を着たり、灰の上に座ったり、被ったりす

 ることは、確かに旧約時代からの悔い改めのしるしであった。しかし肝心なことは、外

 的な行為をすることではなく、自分の心を引き裂き(ヨエル2 章) 、神に赦しを受ける

 ことなのである。

4)神は隠れたことを見ておられる。私たちがどのような心で、またどのような態度をもっ

 て、事をなしているかが問題なのである。イエスが山上の説教の中で教えられたのは、

 外面的な行為が自分を高めるというのではない。それがどれほど有用であったかでもな

 い。人に見られる義=善行が問題なのではない。確かに主は、献げ物も施しも大事にさ

 れた。祈ることも教えられた。自ら断食もされた。しかし、弟子たちに断食を求めず、

 花婿が一緒にいるときにお客は断食しない(マタイ9:15) と言われた。問題は行為自体

 でなく、どういう動機で何のためになされるかなのである。しかも人に見せびらかすた

 めでないし、自分の功績を積むためでもない。神関係の中で自らの心の現れとしてなさ

 れる。宗教改革のとき、ルターが断食を教会の多くのしるしの一つに数えている箇所も

 ある。古代のキリスト者たちが、復活日の前に守った断食が、四旬節の間の節制として

 延長された。しかし、主要なことはそれぞれの内的な神との関係にほかならない。


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