2021年1月16日土曜日

週報・説教メッセージ 2021/01/17






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今週の聖書の言葉 

福音書 ヨハネ1:4351 (165)

その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。 フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。 フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」 するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。 イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」 ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。 ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」 更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

 

説教「お呼びになったので参りました」 徳弘浩隆師

 

1.  玄関の引き戸が外れてしまいました…

先週は静岡県に出張に行ってきました。予定されていた会議のついでに面談する予定も立てたのですが、コロナの影響で会議は中止。しかし、どうしても会って面談してほしいという方が複数おられ、車で行って感染対策をして寒い中窓も開けて換気し、会食もしないということで夜までよい話し合いができました。その夜は急いで車を運転して帰宅しても危ないので翌日の別の会議に備えてホテルに宿泊。ようやく一休みという時、妻から連絡がありました。「玄関の引き戸が壊れて鍵が閉まらない」というのです。前からレールやカギが傷んでいて時々私が調整していましたが、ちょうど私がいないときにまた問題が起こりました。

私は何度も直していましたから、見なくても様子がわかるので、電話越しにいろいろと説明をしました。「引き戸の両側を持ってもち上げて、レールに乗せることが出来たら治るから心配しなくてもよい」と。レールが割れていて、そこから脱線しているからです。しかし妻は何度も何度もやってみますが、うまくいきません。重たいし、深夜で暗く寒いので大変そうでした。遠くにいるので帰れず、深夜なので教会の誰かにお願いすることもできず、苦労しました。どうしてもできないので、一度外すことにしました。私もそうした時もあるからです。「じゃ、一度外してしまおう、そして少し休んでから引き戸の両枠を持ち上げてエイっと乗せたほうがいいかもしれない。」しかし今度は、外したまま、乗らなくなってしまいました。私は途中から映像を見ながら電話でアドバイスしました。出先からでもインターネットを通じて防犯カメラで玄関先が見れるようにしてあるからです。一時間以上して何とか乗せることが出来て元に戻りましたが、まだカギは締まりません。妻はもうあきらめて、応急処置をして、翌日明るくなってからようやく解決することが出来ました。なかなか眠ることが出来ませんでしたが、私は今日の聖書のイエス様とナタナエルの話を思い出しながらいろいろなことを考えさせられました。

2.  聖書を学びましょう

今日の聖書は、ヨハネの福音書で最初の弟子たちがイエス様に呼ばれ、従っていった時の話です。来週はマルコの福音書から弟子たちがイエス様に招かれ従っていった話が読まれますし、少々重複していたり、順序や出来事が違って見えるところがありますが、今日の聖書から、神様の私たちへの呼びかけ、それに対する私たちの姿を見つめていきたいと思いました。

弟子たちは、イエス様を見てその素晴らしさにひかれて、すぐに黙ってついていったと思いがちですが、今日はそうではない人が出てきます。それは、ナタナエル。最初にイエス様はフィリポという人に出会い「私に従いなさい」と 言われました。フィリポはナタナエルに会い、「自分は聖書が預言しているメシアにあった」と告げますが、ナタナエルは素直に従うことをしませんでした。むしろそれを疑い、また馬鹿にしたのです。「ナザレからそんな偉大な人が生まれるわけがない」と。イスラエルの国は二つに分裂し北のイスラエルは正統なユダヤ教の神殿を持たないので亜流のユダヤ教と思われていましたし、後にアッシリアに滅ぼされ民族が混交していく中で宗教的にも民族的にも乱れてゆきました。だからイエス様の当時の社会でも、ガリラヤやサマリヤなどは悪く思われていたのです。そんな先入観のある彼に「来て、見なさい」とフィリポが促し、しぶしぶイエス様に会いに来たということでした。しかし、そんな疑い深く、差別すらするような彼の心は変わります。それは、イエス様が自分のことをずっと見ていたかのようにご存じだったからです。「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言い当てられたからです。それがきっかけで彼はイエス様が「神の子、イスラエルの王」つまり、メシアであると信じ従ったのでした。しかし、それはきっかけでした。イエス様は、そんなことで驚いて付いてくるのではなくて、もっと偉大なことを今から見るようになるだろう」といわれたのでした

3.  振り返り 

 私たちも、それぞれ、いろいろな動機、きっかけで教会に来たり、聖書を学んだりしているでしょう。それぞれいろんなきっかけでよいでしょう。教会の人のやさしさ、正しさかもしれません。祈ったら聞かれたという奇跡的な体験かもしれません。聖書を読んで心にしみた、聖書の言葉の預言通りに歴史や世界が動いていると理解したかもしれません。

しかし、それらすべては、入り口かもしれません。もちろんそれでよいのです。逆に神様を信じることが出来ない何かがあるかもしれません。ナタナエルのように。しかしそれも、一つの通過地点で、もっと大きな神様の力や、まなざしに触れて、信じれるようになる、それをイエス様は期待し彼に語り掛けました。

 壊れた玄関の引き戸や、パソコンのわからないことでも、慣れている人に相談すれば、まるで今そこで見ているかのように細かく指示してくれることもあります。そばにいなくても防犯カメラの映像を見ながら様子が分かることもあります。自分のことを言い当てられたと驚いたナタナエルは、そこにとどまってはいけないのです。いつも自分を見て守り助けてくれている神様のまなざしを見るとき、ただの奇跡ではなくて、安心してこの方について行こう、お任せしよう、と思える、そんな信仰の成長の出来事が願われています。信仰は、勉強したり、信じ込むことではなくて、この方について行き、その仲間とともに泣いたり笑ったりして生きていく生きざまだと思います。

4、勧め 

今日の旧約の聖書は預言者サムエルが子供のころ、神様の呼びかけを聞いた時のエピソードでした。寝ているときに、預言者の先生エリに呼ばれていると思って3度も「呼ばれたから来ました。何ですか?」と尋ねます。エリのアドバイスに従って今度は、「主よ、聴きます。お語りください」と返事をしたときに、彼は神様のより大きな計画を聞くことになりました。

私たちに必要なことは、いつも、いつまでも謙虚に、神様にそう尋ねることでしょう。自分の信仰や知恵、計画に自信をもっているときに私たちは過ちを犯します

自分の人生を、家庭や社会を、そして世界の問題を解決するのも、「主よ、呼ばれたので参りました。お語りください、聴きます」という祈りと姿勢で生きていきましょう。

神様の祝福がありますように。


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