2021年1月7日木曜日

主日日課の学び(石居正巳先生) B年  顕現後第3  マルコ1:14-20

 顕現後第3  エレミヤ16:14-21  1コリント7:29-31 マルコ1:14-20 


1)この日課から聖霊降臨後の期節にかけて連続日課となる。ここには主の宣教の初めと四

 人の弟子の召命が記される。それは同時に主の働きの性格を示している。ヨハネが荒れ

 野で悔い改めの洗礼を宣べ伝えたのに対して、イエスは人々の中で、しかもイスラエル

 の中心地でなく異邦人との接触も多かったガリラヤにおいて福音を宣べ伝えられた。

2)主は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という言葉でその

 働きを始められた。マタイは洗礼者ヨハネが「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタ

 イ3:2)と宣べ伝え、全く同じ言葉で主もその宣教をされた(マタイ4:17) とするが、マ

 ルコはそのような形でのヨハネの言葉を伝えていない。もちろん天の国はマタイ的な言

 い方で、神の国と同じである。近づいたのは、なお遠いけれども幾分か近づいたという

 のではなくて、まさに戸口まで来ているということにほかならない。時が満ちたという

 のは、神の計画の中で予定された時間になったことを表す。主イエスの言葉の中では、

 悔い改めること、すなわち方向転換をして神との関わりの中で生きることは、主が伝え

 られる喜ばしい音信を信じるという積極的な面と結びついている。

3)ルカはシモンとその仲間たちが弟子として召されたことを、イエスのガリラヤ宣教があ

 る程度なされた後のこととして記している。しかしマルコは宣教の開始と同時に起こっ

 たように述べている。もっとも「すぐ」というのは、聖書の記述の特徴で、必ずしも時

 間的な短さに限らず、確かな応答がされたことを示している。ガリラヤ湖畔で、主はシ

 モンとアンデレ、ついでヤコブとヨハネを見て、召され、彼らはそれに応えて自分たち

 の仕事も家族も後にして、主に従った。預言者エリヤはエリシャを見て、自分の外套を

 投げかけ、エリシャは両親に別れを告げてエリヤに従った(列王上19:19)。それに対し

 て主は彼らに言葉をかけて、呼び出された。漁師であった彼らは、人間を神のものとし

 てからめ捕る漁師にしようと言われた。働きの魅力とか、よい地位や報酬で彼らを誘っ

 たわけではない。むしろ神の働きに参与するよう召されたのである。

4)一般的には弟子が師を探し選ぶことになるけれども、これらの弟子たちは、全く主の選

 びに基づいて召された。彼らがどれほど主イエスの宣教について知っていたのかは、明

 らかでない。マルコの記述のままだと、何も分からないままに、主の働きの最初にまず

 召されたことになる。それは主イエスの吸引力の強さを物語っているとも言える。その

 みことばの権威と人格的な魅力とによって、彼らは主の十字架と復活に至るまで、有無

 を言わずに従って行った。しかし信仰をもって主イエスに従うことは、主と共に伝道の

 働きに従事することだけではない。悪霊に取りつかれていた人が、イエスの力によって

 癒されたとき、主と共に行くことを願ったが、それを許されず、むしろ自分の家に帰っ

 て、周囲の人々に神のみわざを証しすることが命じられたこともある(マルコ5:19) 。

 だれもがそれぞれの仕方で主に従うことが備えられている。


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