2021年7月18日日曜日

週報・礼拝メッセージ

 


聖書の言葉 

聖書 マルコ 6:30~34,53~56 (新72)

さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。 イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。 // // こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。 一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。 村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。


説教「その自由は幸せか?」 徳弘浩隆師

1. 「しばらく休むが良い」といわれても…

「忙しくて、忙しくて大変だから、神様どうぞゆっくり暫く寝かせてください。仕事に追い回されないで、何もしなくて良い、自由が欲しいです。食事の準備も上げ下げも、だれかしてくれるような生活が、一度でいいからしてみたいです」と思うことは誰にもあるでしょう。私にもあります。しかし、教会のメンバーの方からこんな話を聞いたことがあります。

その方は忙しくて大変で、不平不満を言いながら、さっきのようなお祈りをしていました。しばらくして大きな病気になりました。仕事をしている場合ではありません。急遽入院して、毎日病院のベッドに寝たきり。どこにも行けず、何もできません。食事は準備をすることもなく、看護師さんや病院スタッフが上げ下げしてくれます。しかし、本当につらい、自由がない生活が続きました。そして彼女は祈りました。「かみさま、どうして私はこんな病気にならないといけないんでしょうか。もっと自由な生活がしたいです」と。

思わず苦笑いさせられる、本当の話です。このかたの「身勝手な」お祈りを馬鹿にして笑うことはできず、苦笑いしてしまうでしょう。そして、私たちは、似た経験があるかもしれません。

今日の聖書を読んで、「自由」「不自由」、飼い主がいること、いない事などを、考えさせられます。

聖書を学び、神様の私たちに語り掛けてくださるメッセージを一緒に聞いていきましょう。

2. 聖書を学びましょう

今日の福音書のお話は、イエス様が集まって疲れ果てていた5000人もの群衆に話をしたり、病気をいやされたりしているところです。その中で、夕暮れになり、行く当てもないその群衆に、奇跡的に食事の量を増やして、人々にふるまわれたのですが、その所を少し飛ばして、それを挟んだ二つの出来事、状況が選ばれています。

その食事の奇跡そのものは、今後に譲ることにして、前後の状況から、私たちの姿、それに関わってくださる神様の愛を学んでいきましょう。

弟子たちの状況はこうでした。イエス様に町々に派遣され、神様の言葉を伝え、人々に寄り添い、癒したりもしました。そして今日の所はそのあとに、イエス様の所に帰り集まってきて、自分たちが「おこなったことや教えたことを残らず報告した」のです。イエス様は「しばらく休むが良い」と言われました。休みも大切です。そもそも、週に一度、7日目に休むように神様ご自身が定められました。旧約聖書の最初を読むと、神様は天地創造を6日間でされ、満足し、7日目は神様ご自身が休まれたのです。私たちも心身の休息を大切にせねばなりません。無理をして、心身に不調をきたすこともあります。神様からいただいたいのち、その体とたましいは、酷使しすぎてはいけません。まずそれが大切なところです。

しかし、それもできないほど、人々は「飼い主のいない羊のようなありさまで、イエス様に神様の言葉や癒しを求めて集まってきていたのでした。それが二つ目の大切なところ。神様を離れて「自由に」生きてしまったつけが回ってきて、苦しんでいる人々の姿がそこにあります。そしてその姿は、ここにも、自分の中にもあります。

聖書の中では、色々なたとえで、神様と人々の関係をあらわしています。陶器師と陶器、ブドウ園の農民とぶどう畑、そして羊飼いと羊などです。今日は旧約聖書の日課はエレミヤ書が選ばれていて、一緒に読みました。

そこから、神様が、ユダヤ教の指導者と人々の関係を、羊飼いと羊たちの関係で見ておられることが分かります。そして、それが出来ていないからと、羊飼いたち、つまり宗教指導者たち、そして当時の国の指導者たちを非難します。「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」と。しかし、神様は罰するだけで終わりの「コワい」神様ではありません。代わりの手立てを持っているのです。「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と、自分自身が放置され苦しんでいる飼い主のいない羊たちを集め、帰らせること。そして本当によく仕事をしてくれる牧者を立てると、約束されるのです。

ここに「菅善懲罰」、つまり、「良いことを勧め、悪いことは罰する」方ではなく、「自ら責任を取り、私たちに介入してくださる」方が聖書の神様だということを知ることが出来ます。そのための人々と関り、約束の実現としてイエスキリストが現れ、自分の命を捨ててまで人を赦しかかわってくださった十字架に、神様の救いを見ます。

3.振り返り

人類始祖アダムとエバが、神様の言いなりに生きることは嫌だと勘違いをし、「自由」に判断して考え行動することを選んだことが、罪のはじまりだと聖書は伝えます。しかし、それを修復し、呼び戻そうとされるのが神様の愛です。

私たちはどんな生き方をしているでしょうか?時々神様を忘れ、都合の悪い時には神様を遠くに追いやってずるいことや悪いことをし、疲れ果てては不平を言い、自由が欲しいと祈り、誤った自由を得るとまたそれに不平を言う、そんなことが私たちの姿なのかもしれません。

4、勧め 

飼い主の話ですが、こどものころ、猫や犬を拾ってきたり、もらったりした経験が誰にもあるかもしれません。私も、中学のころ道で泣いて付いてくる子猫を家に連れ帰り、うちで飼ってもいいかと両親に訪ねたことを思い出します。「きちんと自分で世話ができるかどうかよく考えなさい。おもちゃみたいに飽きたら捨てることが出来ない、命なんだからね」というのが大概の場合の親の返事かもしれません。私もそうでした。そして、トイレのトレーニングや世話もし、仲の良い家族の一員として過ごし、家族みんなの良い思い出になりました。「ダメだったら捨てることが出来ない、大切な命なんだからね」というのは神様が私たちを愛し続ける理由でもあります。犬や猫を家族に迎えるときに子どもがさせられる約束、それを神様自身が守り続けてくれています。それも命を懸けてです。私たちも、それを思い出し、感謝し、「勘違いの不自由な自由」を捨てて、神様と一緒に行きましょう。

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風の谷より・キリスト教ワンポイント解説 「真の羊飼いが来る」

聖霊降臨後第8主日の福音書は、5千人を倍する人々を養った出来事の前の言葉。飼う者のない羊のように苦しんでいる状態です。これに対する第1日課はエレミヤ書23章1~6節です。バビロンに滅されるに先立って祭司たちがいるのに飼う者のない羊のような状態に捨て置かれた民を憐れんだ神の怒りの言葉です。「こんなふうに捨て置くなら私が飼う」と。第3イザヤは「祭司たちが捕らえ移されたので、飼う者が無い」と嘆きましたが、その前から祭司たちは自らの職務を顧みず民を捨て置いたのでした。神はその言葉通り、捕囚後に預言者を送り、世の終わりに向けて御子を送り、自ら民を飼い支えたのです。それは幸せを連れ来る麒麟にたとえられるでしょう。福音書後半、湖の向かい側ゲネサレに着いた一行は主の所に病人を運んで来ました。これはペリフェローという言葉で、本来は円の周りを廻るという意味です。弟子たちが走り回ったことからでしょう。この単語の頭文字πが円周率の符号として用いられています。シャローム!(三木久人)

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相談・牧師のお手紙 おさそい・ご一緒にベツレヘムに行きませんか? 

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