2021年7月11日日曜日

週報 説教メッセージ 20210711

 


聖書の言葉 

聖書 マルコ 6:14~29 (新71)より抜粋

ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。 少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。 そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。


説教「他人の願い、自分の願い、神の願い」

徳弘浩隆師

1. 季節の変わり目と、人生の変わり目…

先週の土曜日、Facebookに一つの写真を載せたら、フィンランドのマリリーサさんがコメントを寄せてくれました。大垣教会にもいてくれたフィンランドの宣教師ハブカイネン先生の奥様で私と同年代の人です。コメントは「今、トゥルクでLEAFの大会が行われています」とのことで、懐かしくメッセージのやり取りをしました。LEAFというのはフィンランドの宣教団体で日本に宣教師をたくさん送ってくれた団体で、トゥルクというのはその本部がある街です。

毎年、「聖ヨハネの日」のころから大会があり、子供から大人までの集会、そして宣教師の派遣式があります。私も招かれて訪ね、ハブカイネン先生が運転するキャンピングカーに彼の家族と一緒に乗り、参加したことがあり、懐かしみました。大会では地元の新聞に取材されたり、青年向けや大会の礼拝で、またキャンプ場の礼拝でメッセージをしたりもしましたし、スーダンのビショップと一緒にフィンランドの教会の責任者たちに交じって宣教師派遣式にも参加しました。先週の聖書ではイエス様が弟子たちを宣教に派遣した話でしたが、このようにして世界中に宣教師がここからも送られ続けてきたんだな、と感謝し、感慨深い思いを味わいました。

この時期、「聖ヨハネの日」つまり、洗礼者ヨハネの日があり、北欧の人たちは特にこの時期の「真夏」を楽しみます。夏至の頃ですから、夜の10時過ぎまで日が沈まない白夜があり、お昼は湖畔のコテージに集まって礼拝し、湖を楽しみます。「今が一番お昼が長い季節、これを過ぎるとどんどん昼が短くなり、暗く寒い冬に向かっていくんですよ」という季節の変わり目、太陽を精一杯楽しみ、日光浴もするそうです。

さて今日の聖書はこの、洗礼者ヨハネの最後の話です。どうしてこの時期に聖ヨハネの日があるのか、彼の人生と季節の移り変わり、そして私たちの人生の変わり目について、聖書から学んでいきましょう。

2. 聖書を学びましょう

ルカによるとマリヤに天使のお告げがあった時、「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている」と言われ、生まれてきたその人がヨハネでした。ですから、キリストの誕生のちょうど半年前、6月24日がヨハネの誕生日とされました。それは「夏至」・英語でいうとMid-Summerのころで、キリストの誕生が反対の「冬至」のころとなります。この日を境に日が短くなっていく夏至にヨハネが生まれ、この日を境に「太陽が力を取り戻し」日が長くなっていく冬至のころに世の光としてこられたキリストが誕生したのです。もちろん聖書にはクリスマスの日付は書かれていませんから、後の時代にそのように意味づけて祝うようになったということですが、それは大変意味深いことになっています。

洗礼者ヨハネは人々の注目を集め、メシヤかとも期待された預言者でした。人々の罪を指摘し、悔い改めを迫りました。人々は列を作り洗礼を受けていました。しかし、それが目障りな人もいます。罪を悔い改めたくない権力者たちです。時の王、ヘロデもそうでした。罪を糾弾されヨハネを殺したかったのですがその口実がありませんでした。そこに今日の聖書の出来事があったのです。

彼の誕生日の宴の席で、へロディアの娘が踊りを舞い、それがとても素晴らしかったので、王は「望むものは何でもやる」といいますと、彼女は母に相談し「洗礼者ヨハネの首を」と願い出ます。王は困ったのですが客の手前後に引けず、牢にいた洗礼者ヨハネの首をはねて持って来させたというのです。こうして一人の預言者はその使命と命を終え、イエス様の働きが始まっていきます。評判が最高だったヨハネが使命を終え、その日を境にイエス様が世の光として登場してきます。それはちょうど、季節では夏至と冬至の関係と同じなのです。

3.振り返り

私たちの人生にも、栄華を極めていたのに暗闇に埋もれてしまう時もあり、長く暗い苦しみから解放され明るい日々を生きるとき、その境目もあるでしょう。何がそのカギになるのでしょうか。

へロディアの娘について今日は考えさせられました。少し冒険して読み込んでみて、そこから考えてみましょう。彼女は踊りが上手で親を喜ばせました。立派な努力家だったかもしれません。しかし、褒美の望みをと聞かれたとき、彼女は母親に尋ねました。そして母親の望みを伝え、それが実現してしまったのです。彼女は、自分の願いはなく、親の期待に応える生き方だったかもしれません。それが、偉大な預言者の使命を終わらせるきっかけになってしまいました。しかし不思議な神様の計画で、これにより、ヨハネは退場しイエス様が人々の前に現れていきます。イエス様の生涯は何が神の願いか、何が神の計画なのかを伝え、そのように生き、神の御心を受け入れた十字架の死へと向かうキリストとしての生涯です。

4、勧め 

私たちの願い、望みは何でしょうか?子供のころからいろいろ言われて育ち、親の願いにこたえ、親に褒められることを見つめてきたという人が多いかもしれません。あるいはそれに反発ばかりしていたかもしれません。自分のしっかりとした夢や願いはあったでしょうか?私たちは、自分の人生を生きねばなりませんし、親もそうさせねばなりません。

そして、もし自分の夢と願いがあれば、素晴らしいことです。しかし、それが自分の都合や自分勝手な夢ばかりではないでしょうか?神様の願いや期待に沿っているでしょうか?そうでなければ、私たちの人生は実は、無意味で虚しいものなのです。

神の願い、神の計画を生きるときに、私たちの人生は祝福され、豊かにされます。自分勝手な生き方をしているときは、うまくいったとしても、何か意味のない、虚しい人生です。それが、闇の長い人生と光の長い人生の変わり目なのです。ご一緒に聖書を読んで、神様の正しさと、本当の愛の生き方をしましょう。

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風の谷より・キリスト教ワンポイント解説 「預言者の任期」

聖霊降臨後第7主日の福音書はマルコ6章14~29節。洗礼者ヨハネの最期です。イエスさまの先駆けとなって迎える準備をしたヨハネは、ヘロデ・アンティパスの慰み者にされ、首を刎ねられます。イエスさまを指差すことに生涯をかけた預言者でした。

それと対照的なのが、第1日課のアモスです。アモス書7章7~15節ですが、イスラエル王国ヤロブハムⅡ世の時、ユダ王国内のナボテからサマリアに来て演説していたのを宮廷預言者に「他でやれ」とたしなめられた時「私は預言者でも預言者の弟子でもない。テコアで羊を飼う農夫だ」と言って受け入れませんでした。その通りで、アモスの預言期間はその時の数時間の演説に限られます。それが終われば帰って行ったのですが、その2年後にサマリアで地震が起こった時、支持者たちがこれを預言したとして集まって預言書を作ったのでした。ただアモスが預言したのは、その後の王国の滅亡であり、世の終わりの審判です。オリオンと昴が出てきますが、冬の種蒔きの季節を示しており、それはそのまま刈り取りの季節を示しています。シャローム!(三木久人)


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相談・牧師のお手紙

地域の付き合いもありますが、ほかの宗教のことは、どう考えたらいいのですか? 

あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、 神から出たものであれば、

彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。(使徒言行録5.38-39)

 

「地域のお祭りもあり、また親戚のお盆の行事もあって困ります。クリスチャンはほかの宗教をどう考え、付き合ったらいいのでしょうか?」という相談があります。

私たちは、天地万物を創造された神様を信じています。聖書では異教の神々を信じ従うことを禁じていますし、偶像崇拝や乱れた宗教の生き方もたびたび非難されてきました。ですから、私たちは偶像や自然を拝んだり崇拝したりはしません。しかし、世界中のすべての宗教を研究・体験し、比較検討して判定するのは一人の人生では無理です。明らかな犯罪行為や誤った行動を強いるところは別として、それぞれの信仰を持ち人々や世界のために尽くす宗教者たちをむげに非難はできません。最後は神様が知っておられることだと、お任せするのもいいのではないでしょうか。私が学び、洗礼をしてくれた尊敬するルーテル教会の牧師先生は、「信仰では譲らず、愛では譲ってもいいことがありますからね」と言われました。知合いの弔いには他宗教でも出かけ、そのやり方を尊重し人々を傷つけない付き合い方もあると教えてくれました。もちろん、死者や偶像を拝むのではなく、その方のことを神様にとりなして祈ることです。

さて「アッラー」とはイスラム教の神様と思い込んでいる人が多いですが、アラビア語の聖書では神様のことをやはり「アッラー」と呼び祈ります。今週土曜日から月に一度始まる、「Zoomでパレスチナ旅行」の聖書研究会では10月にはベツレヘムのパレスチナ人のルーテル教会を訪ねます。教会掲示板を見て、申し込み、ぜひ、参加してください!面白い発見満載です。(徳弘) 


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