ヨハネ10: 1~10
1「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。 2門から入る者が羊飼いである。 3門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。 4自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。 5しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」 6イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。
7イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。 8わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。 9わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。 10盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
説教 「どの門を入りますか?」 徳弘牧師
1,オルガンの修理のとき…
先日、オルガンの修理をしていただきました。まずは、見積もりを兼ねて、出来る範囲の応急修理をしていただきました。
礼拝堂のオルガンは、タンスを横に置いたような形に、横にされ、掃除機で埃を吸い取り、少し部品が外され、掃除と応急の修理をしていただきました。見ている私たちに、どこがどう壊れているのか、詳しく説明してくださり、音が出る仕組みも説明してくださいました。大きな不調の原因は、リードと呼ばれる真ちゅうでできた薄い板が風の力で振動して、それが増えのように音が出る仕組みになっていますが、そこに埃が付いたり、錆が付いたりして、うまくいっていないというのが良くある原因とのことでした。リードは英語ではReedとかいて、もとは葦の意味があるようです。
さて、その時驚いたことがありました。足踏みオルガンやパイプオルガンのふいごのように、空気をためる袋があり、そこから出る風で笛やパイプを服用にならすのですが、このリードオルガンは、風を吹いて音を出すのではなくて、風を吸う形で音が出るというのです。この空気袋が少し破れていて、そこから風が漏れるのでうまく音が出ないし、風が足りずに一生懸命踏まないといけないので、ギコギコバタバタと音もしてしまうし、演奏者は大変だということでした。空気袋を見せながら、音を出しながら、説明してくださって、よく理解できたのです。
そして私が驚いたのは、風を送り笛を吹くように音が出ていると思い込んでいたのですが、このタイプのオルガンは、風を吸う勢いで音が出ているということでした。
思わず質問しました。「ということはこれは、呼吸の呼気ではなくて、吸気で音を出しているということですか?」と。すると先生は、「その通りなんですよ!」と答えてくださり、なんと驚きながら納得したのでした。考えてみたら、ハーモニカでも吹くときとすう時で同じ穴からでも出る音が違いますが、その、吸う時のような穴がたくさんあるのが、このタイプのオルガンで、パイプオルガンなど噴き出す勢いで音を鳴らすのとは違うということでした。
なんと、見た感じは似ていても、楽器の世界も色々あるんだなと、思わされた次第です。
どうして今日こんな話から始まるかというと、何事にも、入り口と出口があると、一週間考えさせられていたからです。今日の聖書は、イエス様がご自分のことを「門」とたとえられ、この門から入るものは救われるといわれたのです。どんな意味があるお話なのでしょうか?聖書を見ていきましょう。
2,聖書
「はっきり言っておく」という飯田市で始まる話が二つ今日は続いています。この言葉は、お祈りの最後に私たちも唱える、「アーメン」という言葉と同じ言葉からできています。もっともだ、その通りだともいうニュアンスで、大切なことを言われるときに、イエス様はこの言葉で始められます。
どんな大切な話だったのでしょうか?
それは、いろいろな宗教指導者がいるが、誰に従っていくべきかということです。いろいろなことを言う人がいるが、羊の声を聞き分けて、羊のためにいる羊飼いではなくて、羊を食い物にする者もいるから気を付けるようにと、ファリサイ派の人たちのことを警告されました。
それに続いて二つ目の話は、「私は羊の門である」と続きます。そして、「この門を通って入るものは救われる」、また、「門を出入りして牧草を見つけ」、「殺されるためではなくて、羊が命を受け、しかも、豊かに受けるため」であると、説明されました。
これは、よい羊飼いが羊のために命を惜しまず捧げ、屠られ、犠牲となってくださり、羊たちは殺されず命を豊かに受けると、ご自分の十字架と復活による人々の救いについて説明をされているのでした。
3,振り返り
昨日はちょうど、東海教区の「わいわいワーク」があって、袋井市のデンマーク牧場に行ってきました。北欧のルーテル教会の宣教師が土地を買い、伝道や、酪農学校を始めたところですが、形が変わって、教会と社会福祉施設になっています。
大きな牧場を生かした、老人施設や児童のための福祉施設、作業所、そして診療所もあります。私たちは高蔵寺教会から11名で出かけ、草刈りの奉仕をしました。ちょうど、こひつじ診療所の担当になり、武井先生ご夫妻とも親しく一緒に作業をし、昼食や交流もさせていただきました。
食後は、お寺のような作りの教会を訪ね、そして牧場でヒツジやヤギ、馬や牛を見て、餌をあげたり、ソフトクリームをいただいたりもしました。そこにも、羊の門がありました。写真にあるような具合です。この門を使って出入りしたり、餌をあげたりもする様子でした。聖書の話を思い出しながら、その門をさすり、いろいろと考えました。
「私は羊の門である」といわれたその門は、どんなもんなのか。ずっと、それを考えました。「この門から入れ」といわれたのです。ほかにもいろいろ門があるのか。それらはどんなもんなのか。
確かに、いろいろな宗教や考え方があります。見てくれはとても良くて、入りやすいもんも、そうでない門もあるでしょう。たとえてみれば、もし看板があるなら、「病気が治る門」とか、「商売が繁盛する門」、「目の前の問題が解決する門」というのもあるかもしれません。そして、入場料を取る料金表があるかもしれません。
私たちが見る、イエスさまというもんは、どんなもんでしょうか?そもそも、私たちはそれを通って、どこに入るのでしょうか?
それは、何事にも、出口と入り口があるという最初の話とつながってきます。私たちは、一度、どこから出てきて、さまよい苦しみ生きてきました。しかし、本来いるべきところに戻って入っていく入り口、その門がイエス様なのではないかと、考えさせられたのです。かつて人類がいて、そこから追い出された門。そんなものがあるでしょうか?
それは、旧約聖書の最初に出てくる、エデンの園の「門」かもしれません。神様が楽園を作り人を住まわせましたが、人は神様の言う約束を守らず、自分で善悪を決め、勝手に生きるようになりました。そこに互いの利害や欲がコントロールできない無法地帯になり、悪がはびこったのです。アダムとエバが約束を守らず、楽園を追放される物語は、そんな神秘的な人間の罪について、物語っていると理解してもよいでしょう。 神は、楽園から彼らを追い出し、「エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた」と、創世記の3章に伝えられていることです。
4,勧め
何事にも出口と入り口があります。私たち人類は、神様が用意してくれた楽園を「出た」のです。その時の神を捨てて、人を愛し助け合うことができない生き方を選んだのが、私たちの罪の始まり。そして今まで綿々と続いている罪の歴史です。人の心の中にも、家庭や、国と国の間にもある、不公平やいさかい、紛争や戦争の歴史です。それを解決し、取り返すために、キリストは来られました。人々を教えるふりをして、「食い物」にするのではなく、自らの命を投げ出して身代わりの犠牲になり、そして、罪びとの心を震え上がらせ、改心に導く十字架にかかられました。それが終わりではなく、復活して弟子たちに現れ、彼らを許し、解放し、生まれ変わった心で生きる道を作ってくれたのです。
それが、十字架と復活、それを自分のものにする洗礼ということになります。
だから、私たちは、この方を、この門を選び、これを通ってこそ、本来の人類の意味のある生き方、社会に戻っていくことができるのです。
その楽園は、どこか西の国にあるのではありません。死んだ後の世界でもありません。いま、私の生き方の中から、それが始まり、広がっていくのです。それがキリストが言われた、神のご支配、神の国なのです。この門を選んで、いっしょに入っていきましょう。