2022年12月25日日曜日

説教メッセージ 20221225 クリスマス

 聖書の言葉 ヨハネ 1: 114(163)

11初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 2この言は、初めに神と共にあった。 3万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 4言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 5光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

6神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。 7彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 8彼は光ではなく、光について証しをするために来た。 9その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 10言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 11言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 12しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 13この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

14言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。




 

説教 「暗闇の中の光」  徳弘浩隆牧師

1,「光」

クリスマスおめでとうございます。昨日はクリスマスイヴの礼拝、そして今日はいよいよクリスマス礼拝です。今年は、カレンダーの関係でちょうど1225日が日曜日になりました。

昨日の夜、ベトナム人の友人からメッセージをもらいました。高蔵寺教会のフェスタを手伝ってくれた二人連れで、教区の青年会にも来てくれた二人です。彼のメッセージは、「Merry Christmas」という言葉とともに、きれいに上がる花火のビデオでした。「どこにいるの?きれいだねぇ」と、日本語教室の仲間たちが聞きました。彼の答えは「名古屋港です。人がいっぱいです。だけどキレイ!」本当にきれいな打ち上げ花火でした。名古屋市に住んでいるのにそんなイベントは知りませんでした。守山に住んでいる彼らの方が詳しいなぁと思いましたが、仲間から聞いたのかもしれません。どちらにしてもクリスマスイヴは教会の礼拝があるので、行くことはできませんけれど。

クリスマスですから、光やロウソクの火についても一緒にいろいろ考えました。

考えてみれば、光そのものを見て役立つとか、楽しむというのは、花火や焚火や灯台くらいかもしれません。焚火も実は、それを囲んで語り合ったり踊ったり、暖を取ったりして、火そのものよりも、その温かさや明るさとその雰囲気を楽しむものかもしれません。

そう思うと、花火は火・または光そのものを見つめ、楽しむものです。考えてみたら、珍しいことかもしれないと思いました。それ以外は、明るさ、温かさ、あるいは熱さで調理をしたりします。明るさも、火も、その光そのものを見るのではなくて、火に照らされるから、人の顔や闇夜の道、夜で文字を読むことができる、反射するのを前提にしている用い方といえるかもしれません。

そういえば、昔、マンガの鉄腕アトムを見ていて、こども心に、「これはおかしいぞ」と思ったことがあり今でもよく覚えています。アトムが、暗闇で、ものを見るときに、その目から光を放ち、ものを照らしているのです。子ども心におかしいと思ったのは、「目がライトになっても意味がないじゃないか。ライトの反射で物の形や色を見ることができるので、それが目のはずだ。ライトが出るのは目じゃなくて、ほかのところにしないとおかしいぞ」と。

今日の聖書は、神様が私たちのために送ってくれた救い主、メシア、またはキリストのことを、この世に光として来られた方として紹介しているのです。

それは、私たちにどんな意味があるのでしょうか?一緒に聖書に聞いていきましょう。

 

2,聖書

今日の聖書はヨハネの福音書の冒頭です。これは明らかに、旧約聖書の最初の書物である創世記を意識して書いていると考えられています。天地創造をされた神様が、暗闇と混とんの中に、「光あれ」といわれて光があった、というところです。神の言葉によって生まれた光、そしてそれに続く世界の万物。それに対して、はじめに言葉があり、言葉は神とともにあり、その言葉によって万物ができたと続くからです。

そして、その言葉のうちに命があり、その命は人間を照らす光であった、というのです。ここで、神の言葉が光としてこの世に来て、人を照らすものとして私たちに送られたのが、イエス・キリストであるという流れになっています。

そして、その、神によって生まれて人のもとへ来た光は受け入れられなかったけれど、それを信じる者には神の異なる資格を与えたのである、と、イエスキリストのご生涯を短く整理しながらまず説明し、イエス様のおられた時代の出来事へと話を進めていくというのが、このヨハネの福音書のスタイルでした。今日の個所の最後は、神の言葉は肉となって、私たちの間に宿られ、その栄光を見た、とクリスマスの出来事までとなっています。

 

3,振り返り

問題や苦しさばかりある私たちの人生や社会ですが、それを解決するために、神様が送られた方、イエスキリストの意味付けと、立場を紹介します。そして、受け入れられなかったことも紹介しています。そんな中でも、この方の名を信じる者は、救われるというのです。

私たちはこれをどう読むべきでしょうか?

私たちの人生は、変わるのでしょうか。変わらないのでしょうか?

冒頭に考えたように、光の意味や働きを考えてみましょう。光は、道を照らします。光で物が見え、文字も読めます。人の顔も、その表情から気持ちも読むことができます。光そのものを見つめるとまぶしいのですが、その光が照らすものは、反射されて見えるものをよく見るという意味や役割があるのです。

キリストは人を照らすための光として来られました。ありがたいことです。暗闇でも道が見え、文字が読め、人の表情もわかるからですね。しかし、忘れてはいけないことがあります。その光は、闇の中に、そっとしておきたいものをも照らし、見えるようにするのです。見たくないものも見えるようになります。

それはちょうど、年末の大掃除できれいにしようとすればするほど、普段気にしていなかった汚れが気になるのと似ているかもしれません。汚れが気になって車を洗う時にこそ窓ガラスの汚れが気になるのと似ているかもしれません。

キリストによって、その光に照らされるとき、助けられもするけれど、まず、自分の心の醜さや愚かさに気づかされもします。それを認めたくない人、そこから逃げ出したい人は、あるいは、そういう時は、光を受け入れないのです。

 

 4,勧め

光そのものがありがたいのですが、光だけを見て何かが解決するのではありません。光に照らされたものをみえるようにしてくれるのが光です。

「キリストが来られた!そして、マジックですべての問題を解決してくれる」というのが、神様の救いの計画ではありません。光として来られた方を通して、神様を知り、そして自分を知ること。その自分の良さも悪さも、素晴らしさも醜さもです。

本来神様が創られた人間の素晴らしさがあるのに、人間の自己中心が人を悪い競争や憎しみに向かわせ、人間の心を、家庭を、社会を、滅ぼしています。神を愛し、人を愛するという聖書の一貫した神様の願いを捨てて、勝手に生きるようになったのが人間、罪びとです。そんな自分の醜さと、神様の素晴らしさ、その愛の大きさを知らされ、改心して立ち変えさせるために、来られた方がキリストなのです。

デイビット神学生が高蔵寺教会で最初のころ説教をしてくれた時、こんなことを言われました。「私たちがここにいるとき、イエスさまもおられます。だから、礼拝に出ている私たちの人数だけじゃなくて、もう一人、イエス様がおられることを忘れないようにしましょう」と。そして、あとでその日の礼拝出席簿を見てみると、誰かが、合計欄の数字に線を引いて消して、一人増やしてくれていました。そのわきに「イエス様」と書いてくれていて、とっても温かい心になりました。説教をよく聞いて、よく理解されて、少しいたずら心で数字を書き換えてくれたんだなと。

でも、少し意地悪な私は後でこんなことを言いました。「僕ならねぇ。それも線を引いて消して、もう一人数字を足すよ。その横に、『悪魔』って書いてね」と。聖書研究会の時に話してみんなで一緒に笑いました。

私たちは、神様に創られましたが、神様を離れて罪の心も持っています。その悪い心を動かすものを、あるいはその動きを昔から、悪魔とかサタンとか考えていたともいえるでしょう。もちろんそういう存在や、悪霊の働きもあるでしょうが、そういう自分の中にいる罪の心、自分を動かしてしまう働きを、悪魔と考えてもいいかもしれません。

放っておけば私たちはいつも、そちらに引っ張られます。そこに、光として来られ、すべてを明るみに出し、道を示してくれる方が、イエス・キリストなのです。

私たちには、光が必要です。そんな方を、この読みお迎えしたのがクリスマスなのです。信仰を持った私たちも、たびたび、闇に引き戻されてしまいます。もう一度、キリストを心に迎えて、この光をいつも携えて生きていきましょう。そして、まだ闇の中にうずくまっている人に、あるいは時々あるそんなときの自分に、光を手渡しする役割も願われています。そんな場に、そんなコミュニティの場に、教会がもっとなりますように。

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