2022年12月3日土曜日

説教メッセージ 20221204

今日は、用事があって中部国際空港・セントレアに行ってきました。近々帰国する外国人メンバーがいるのでそのお見送りの下見と、3年ぶりに開催のクリスマス・マーケットで買い物に。コロナからの久しぶりの再会でまだ以前の本格的なものではありませんが、街はもうすっかり、クリスマスモード。クリスマスを迎える準備はOKですか? でも、それは、だれのための準備でしょうか?一緒に礼拝で考えてみましょう。明日は、復活教会で説教をします。Facebook中継はしますので、教会か、ネット上でお会いしましょう。


聖書の言葉 マタイ 3: 1~12(新3)

3:1そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、 2「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。 3これは預言者イザヤによってこう言われている人である。

「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」

4ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。 5そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、 6罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

7ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。 8悔い改めにふさわしい実を結べ。 9『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。 10斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。 11わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 12そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

説教 「さあ準備!誰のため?」 徳弘浩隆牧師

1,ようやく年末調整…

先日教会事務局から、催促のメイルが来ました。「年末調整のデータが、締め切り日までに手続きされていません。お急ぎ宜しくお願いします。」という内容でした。

「ああ、また年末のあれだ。忙しいのに面倒だなぁ」とつぶやきながら、パソコンに向かいました。今は昔と違って、書類に書き込んでいくのではなくて、パソコンでパスワードをもらったところに記入していくと出来上がりという便利なやり方になってはいますが、やはり面倒です。一年に一度のことですし、むつかしい専門用語?やカテゴリ、保険の払い込み賞などを探すこと、記入することは、つい後回しになります。

そもそも、この年末調整とはなんでしょうか。お詳しい方もおられると思いますが、早く言うと、所得税の払い過ぎや、少なすぎた具合を、年末に調整するという事ですね。自分で加入している生命保険料や住宅ローンなどは所得税計算の際に控除対象になるので、証明書とともに再計算するという具合です。牧師は住宅ローンなどありませんから、少しの生命保険くらいが対象でしょう。

さて、教会の暦で、一年が終わり、新しい年を迎えたわけですが、私たちの人生も、一年の区切りです。

税金の関係で、年末調整をするように、私たちの一年、特に、信仰生活の年末調整も必要です。

たくさん払いすぎたか、払い方が少なすぎたかという事は、神様との関係で見たらこうなるでしょう。

頑張ったけれど、期待したほどの「恵み」や「守り」をいただけただろうか、と考えるかもしれません。それとも、たいしたことはしていないのに神様から多すぎるほどの恵みをいただいたと感じるかもしれません。

一年を終える前に、信仰の年末調整をし、新しい年の準備をしましょう。どんな準備でしょうか?聖書はどう教えているでしょうか?

2,聖書

今日の福音書はタイの3章からです。今私たちはクリスマスの準備をしていますが、今日の聖書個所ではすでにイエス様はお生まれになっていて30歳ほど。そして、そのころ活躍していた洗礼者ヨハネがキリストを迎える準備を人々に訴えていました。その時引用した聖書(つまり私たちが今持っている旧約聖書)の言葉は、イザヤ書の40章3節でした。

彼はこういいました。「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。 これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」

それを今日私たちも聴きました。当時、「キリストを迎える準備をせよ」と洗礼者ヨハネが語った言葉は、今、今年、クリスマスの準備をする私たち、つまり、キリストをもう一度心に迎える準備をしている私たちに、呼びかけているのです。「道を整え、まっすぐにせよ」と。

これを聞いて、私たちは思います。自分の今までの曲がりくねった、生きて来た道を。思い通りにいかず迷い遠回りし、また、何かから逃げて遠回りもした道を。

「それを悔い改めて、まっすぐに生きよう」と思うかもしれません。「心を入れ替えて、今からは正直に、愛がある人生を、まっすぐに生きよう」と。

しかし、それはある意味では間違っています。

「今までの曲がりくねった遠回りもした道をやめて、まっすぐに生きたらいい。その道を、一生懸命に歩いていけば神様に到達するんだ」と思うなら、間違いという事です。

どうしてでしょうか。それは、もともとのイザヤ書の方を読んでみるとよくわかります。こうあるからです。「主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」

このまっすぐにすべき道は、自分が頑張って神様に到達する近道を作るのではなくて、神様が私を救うために飛んできてくれる道を準備するのでした。私のための道ではなくて、神様が来られるための道でした。

それはもちろん、悔い改めです。正しい生き方です。そして、神に帰ることです。

3,振り返り イザヤ書をちょっと勉強

旧約聖書のイザヤ書は面白い書物です。全部で66章。少し大胆にその特徴を言うと、前半の39章までは罪の糾弾と裁き、滅ぼしの預言が多く、それでも神が王を送るから救いはあるとも説きます。そして40章から急に調子が変わって、救いと新しい希望が語られます。そして実は神が送る王は苦しみを受けると不思議な予言があり、それ故に人々は救われると続くのです。

これはちょうど、39巻からなる旧約聖書と、27巻からなる新約聖書、合わせて66巻からなる聖書全体の様子とも似ているとよく指摘されます。神様のなさること、残された聖書は不思議な予言と約束になっていると思わされもします。その、調子が切り替わるところ、40章の最初を洗礼者ヨハネは引用して人々に悔い改めとキリストを迎える準備をするように迫りました。その言葉を今日私たちは聞いたという訳です。そしてこの少し前でこう語ります。「慰めなさい、もう苦役の時は過ぎたという事、犯した罪に倍する報いをすでに受けたから」と。いままで、自分の罪のために苦労したけれど、もういい、十分苦しんだから、助けようという神の声です。

 4,勧め

私たちの人生はどうでしょうか?私の今年一年はどうでしたでしょうか?年末調整の話から始まりましたが、神様との関係はどうでしょうか?まだ、調整しないといけないなら、致しましょう。よく祈り、自分の罪を正直に見つめ、神様にお任せすることです。洗礼を受けた方はもう一度それを思い出し、まだの方は、しっかりと見つめてみましょう。

「十分頑張った。十分苦しみも味わった。もういいよ、助けに行こう。」と神様が言われているのですから、私たちがすることは、その方が来てくれるよう、道をしっかりと準備することですね。それを怠ると、また裁きと苦しみが続くとも洗礼者ヨハネは教えています。

神様が、そして神様が送られたキリストが、私のもとに本当に来てくれるよう、道を開けて、お待ちしましょう。準備は、自分のためではなく神様のため。しかしそれは、すべて、私たちのためでもあるからです。教会につながり、共に生きていきましょう。


0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。