2022年12月31日土曜日

説教メッセージ 20230101

聖書の言葉 ルカ2:15~21 (新103)

天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。


説教 「イエス・キリストの名前の意味」 徳弘浩隆牧師

1,ゴッドファーザー…

今日の聖書が告げていることは、イエス様がお生まれになった後、名前が付けられた日の出来事です。

私はこの聖書を読んで、「ゴッド・ファーザー」という昔流行った映画を思い出しました。イタリアのマフィアの抗争を描いた少し怖い映画でした。マフィアのボスのことをゴッド・ファーザーと呼ぶことが多いからこの名前の映画になったようです。日本語では「親分」となるのかもしれませんが、ここにも、「親」という言葉が使われていて、マフィアのような集団は、肉親の家族のような、またはそれ以上の「疑似家族」として機能していることは、とても興味深いことです。

さて、私がこの映画を思い出したのは、このゴッド・ファーザーという言葉が多くの場合「名付け親」と訳されるからです。イエス様の名前が付けられたという聖書の記事から、名付け親という事を思い出したのです。

なんと関係のないところから無理やりと思われるかもしれません。しかしこの映画の「ゴッド・ファーザー」という言葉は本来、教会の用語でした。生まれてきたときの本当の父母ではなくて、教会で洗礼を受けるときに信仰的後見人のような意味で生涯面倒を見るという「第二の父母」として立てられる役割の人の呼び名です。「代父母(だいふぼ)」、「代父(だいふ)」「代母(だいぼ)」と訳されることが正しいとされています。しかし、幼児洗礼の時の代父母は、名付け親になることも多かったので「名付け親」の役割もあり、キリスト教の伝統が少ない日本の辞書では「名付け親」と訳されることが多くなったそうです。

ところで、英語のGod Fatherは、肉親の親ではなく、神様が立てた父という意味合いでしょうか。映画の舞台のイタリア語ではPadrino(ぱどりーの)といい、映画もGod FatherではなくてIl Padrino(いる・ぱどりーの)として公開されました。ブラジルではPadrinho(ぱどりーにょ)といい、それぞれPadre(ぱどれ)という「父親」という言葉から来ていて、少し小さなものや、愛情を込めて呼ぶときにつける接尾語の「no(の)」や「nho(にょ)」がついています。

生涯信仰的な成長に寄り添うので、学校の卒業式や成人式、そして結婚式などにも参加してお祝いをすることが多いそうです。私も、教会でお世話していたブラジル人の10代の女の子の洗礼式をしたときに頼まれてPadrinho(ぱどりーにょ)になり、妻がMadrinho(代母・まどりーにょ)になりましたので、「結婚式には必ずブラジルに来てね」と本人やお母さんからも何度も言われ、誕生日に贈り物をしたり、今でもよくメッセージで近況を聞いたりしています。

「でも、これは、カトリックの風習でしょ」と言われるかもしれませんが、ルーテルにもあります。今の私たちのルーテル教会では「教保」という呼びかたで、洗礼の立会人として立ててもよいとされています。

このような伝統で考えると、名前を付けるという事は、そして洗礼を受ける・授けるということは、その時の思い付きや願いだけではなくて、その人の生涯にわたって祈りつづけ、喜びや悲しみにも寄りそうという事を意味しています。

人にはみんな名前が付けられ、そこには、祈りや願いも込められています。イエス様のお名前には、どんな願いや祈りが込められていたのでしょうか?そしてそれは、願いや祈りだけではなくて、その方の特質や使命もあらわされていました。聖書から、聞いていきましょう。

2,聖書

 今日の聖書では、「幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である」とあります。これは、同じルカによる福音書の1章30-33節にある次の天使ガブリエルの言葉です。「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」

 そして、マタイが告げる記事ではマタイ1章20-21節において、ヨセフに対してこう告げられています。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」そしてマタイはこれが、旧約聖書のイザヤ書の預言の実現でもあったと、説明を続けます。

 このようにイエス様は、旧約聖書で予言されていた救い主としてお生まれになった方だと説明され、その名前の意味や、願い、その使命も明らかにされていくのです。

 イエスという名前の意味は、ヘブライ語で「ヤハウェ(יהוה)は救い(הוֹשִׁיעַ hoshía)」を意味する」言葉です。そして、天使はその使命として、ヨセフには「この子は自分の民を罪から救う」と、マリアには「偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」と告げたのです。また、マタイはイザヤ書の預言から「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」とも説明されています。

 イエスという名前は、父なる神様が名付け親、文字通り「ゴッド・ファーザー」で、天使によって伝えられた名前だったのですね。

3,振り返り

さてでは、イエス・キリストという名前の意味はどうなるでしょうか?

私は中学生のころ、図書館の委員をしていました。図書館とクラスの連絡係や図書館の掃除も役目でした。よく行きましたが、偉人伝のコーナーが好きでした。そこには、野口英世、シュバイツァー、ヘレン・ケラー、そしてイエス・キリストという題名のこども向けの本などが並んでいました。科学やキリスト教、そして世界に興味を持っていた私は、それらが好きでした。

しかし、後になって気が付いたのは、「イエス・キリスト」というのは、他の偉人伝の人たちと同じように、苗字と名前と思っている人が多いけれど、そうではない、という事でした。ちょっとした衝撃でした。キリストというのは私たちは知っている通り、救世主、メシアという意味で、苗字ではありません。もともと、あの時代のユダヤでは苗字はなくて、出身地とともに呼ばれることも多く、「ナザレのイエス」と言われたという具合です。ですから、イエス・キリストと呼ぶときには、「イエス様はキリスト・救世主なのです」という信仰告白のような意味合いが含まれているのです。

私達は今日、これらのことをきちんと整理して理解し、イエス様を通して私たち一人一人を赦し、癒し、救おうとされた父なる神様の祈りや願いを、かみしめねばなりません。

クリスマスは1月6日の当方の博士たちがイエス様を拝みに来たといわれる顕現節・エピファニーと呼ばれる時期までになります。まだ、教会の飾りはそれまで片付けなくてもよいことになっていますが、世の中は12月25日が終わるとさっさと片付けて、しめ縄や門松に変えられてしまいました。私たちも先日、明るく暖かい光として、この暗く冷たい世に送られたイエス様のことを、キャンドルを見ながらうれしくお祝いしたのですが、心の中から、さっさと片付けてはいないでしょうか?世界的なエネルギー危機や、戦争の地域では攻撃による停電で、もっと光や温かさが必要とされていますが、私たちの心や社会、そして世界に、もっともっと、温かさや明るさが必要なはずなのにです。

 4,勧め

今日は冒頭で、少し関係のないような、雑学のような、ゴッド・ファーザーの話から始まりました。しかしこれは、そんな私たちにも、大きな示唆を与えています。

マフィアや悪の勢力が、この世の血を分けた家族や親族よりももっと絆の深い大きな家族として、それぞれの国や社会で機能しているからです。

私たちの教会はどうでしょうか?一緒に今日学んできた「神様は救い」という名前をもらったイエス様、私たちに寄り添ってくれたイエス様を信じて、何でも遠慮なく言えて、時には意見が違っても互いを尊重して話し合い、誤りがあれば謝ったり赦したりし合える、大きな家族として機能しているでしょうか?そしてその大きな家族に、もっと多くの方を招いて一緒に生きていこうとしているでしょうか?

ことしも、よろしくお願いいたします。互いに祈り支え合い、生きていきましょう。そして、この社会や、地域、世界のことも一緒に祈り取り組みましょう。あなたも、この大きな家族に、入ってみませんか?祈ってお待ちしています。

 


牧師コラム 

ガブリエルとイエス様? 欲張りな名前の人、知っていますか?

ことしは、ワールドカップがありましたね。寝不足になりながら熱戦を応援した方も多いでしょう。日本代表が思わぬ?快進撃で驚いたり喜んだり、最後は残念だったりもしました。私は、もう一つ、驚いたことがありました。ブラジル戦を見ていて思い出した、ある選手の名前です。彼の名前は、なんと、「ガブリエル・ジェズース!」今日の聖書に出てくる、マリアに現れた天使ガブリエルと、その天使が名前を伝えたマリアから生まれたイエス様、その両方の名前を持っているのです。なんと贅沢な、なんと恐れ多い!私がいたサンパウロ市出身の25歳の選手。プロ入りしたときに与えられた背番号はなんと、33番! いろいろな意味で注目し応援したい選手ですね。


2022年12月30日金曜日

祈りのこよみ 202301

 

日本福音ルーテル教会  東海教区宣教部

 

祈りのこよみ 2023年1月の祈り

新しい年の歩みを覚えて

教区・主題「困難の中、変えてはならないことと、変えるべきことを見極め、取り組む。」

教区・主題聖句「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」(2テモテ4:2)

1月1日

◆東海教区の各教会が、今年も1年間、神様の助けによってそれぞれの課題を乗り越え、歩んでいけますように。

◆各教会で行われる総会の上に、神様の御導きと祝福が豊かにありますように。

静岡教会を覚えて

光延 博 牧師

 

年間主題「助け合う」

年間聖句「あなたはわたしの愛する子 わたしの心に適う者」(ルカ322

 

    音羽町礼拝所   ひかり礼拝所

1月8日

◆病を背負いつつ過ごしている兄弟姉妹に、共におられる主の平安と御癒しがありますように。

◆つらさを抱えた家族と共にいてケアをしている兄弟姉妹に、日々主の守りとお支えがありますように。

◆弱さを大切にし、想い合い、助け合う交わりのうちに歩めますように。

小鹿教会を覚えて

秋久 潤 牧師

年間主題「現在と過去を知る ── かつて起こったことは、これからも起こる ──」

主題聖句「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(コヘレト31節)

1月15日

◆御言葉によって、地域と教会のつながりが強められますように。

◆子どもたちが、神さまの愛により大切にされますように。

◆ご高齢の方、病を抱えておられる方の健康が支えられ、主にある交わりが保たれますように。

栄光教会を覚えて

伊藤 節彦 牧師

 

年間主題・聖句

「主よ、わたしの唇を開いてください。この口はあなたの賛美を歌います。」

(詩編51:17)

1月22日

◆宣教70年を迎える焼津礼拝堂の働きがますます用いられますように。

◆礼拝堂を閉鎖した島田での家庭集会が祝されますように。

◆駿遠地区のセンターチャーチとしての働きを、藤枝礼拝堂が担っていけますように。

掛川菊川教会を覚えて

横田 弘行 牧師

年間主題「宣べ伝える人」

年間聖句「からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である。(Ⅰコリント12:12)

1月29日

◆牧会委嘱を担って下さる横田先生と役員会の働きのうえに祝福が豊かにありますように。

◆司式・説教を含めた信徒奉仕者の 働きが豊かに用いられますように。

◆福音の灯を高らかに掲げ、地の塩・世の光の務めを果たせるように。

 

2022年12月25日日曜日

説教メッセージ 20221225 クリスマス

 聖書の言葉 ヨハネ 1: 114(163)

11初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 2この言は、初めに神と共にあった。 3万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 4言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 5光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

6神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。 7彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 8彼は光ではなく、光について証しをするために来た。 9その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 10言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 11言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 12しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 13この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

14言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。




 

説教 「暗闇の中の光」  徳弘浩隆牧師

1,「光」

クリスマスおめでとうございます。昨日はクリスマスイヴの礼拝、そして今日はいよいよクリスマス礼拝です。今年は、カレンダーの関係でちょうど1225日が日曜日になりました。

昨日の夜、ベトナム人の友人からメッセージをもらいました。高蔵寺教会のフェスタを手伝ってくれた二人連れで、教区の青年会にも来てくれた二人です。彼のメッセージは、「Merry Christmas」という言葉とともに、きれいに上がる花火のビデオでした。「どこにいるの?きれいだねぇ」と、日本語教室の仲間たちが聞きました。彼の答えは「名古屋港です。人がいっぱいです。だけどキレイ!」本当にきれいな打ち上げ花火でした。名古屋市に住んでいるのにそんなイベントは知りませんでした。守山に住んでいる彼らの方が詳しいなぁと思いましたが、仲間から聞いたのかもしれません。どちらにしてもクリスマスイヴは教会の礼拝があるので、行くことはできませんけれど。

クリスマスですから、光やロウソクの火についても一緒にいろいろ考えました。

考えてみれば、光そのものを見て役立つとか、楽しむというのは、花火や焚火や灯台くらいかもしれません。焚火も実は、それを囲んで語り合ったり踊ったり、暖を取ったりして、火そのものよりも、その温かさや明るさとその雰囲気を楽しむものかもしれません。

そう思うと、花火は火・または光そのものを見つめ、楽しむものです。考えてみたら、珍しいことかもしれないと思いました。それ以外は、明るさ、温かさ、あるいは熱さで調理をしたりします。明るさも、火も、その光そのものを見るのではなくて、火に照らされるから、人の顔や闇夜の道、夜で文字を読むことができる、反射するのを前提にしている用い方といえるかもしれません。

そういえば、昔、マンガの鉄腕アトムを見ていて、こども心に、「これはおかしいぞ」と思ったことがあり今でもよく覚えています。アトムが、暗闇で、ものを見るときに、その目から光を放ち、ものを照らしているのです。子ども心におかしいと思ったのは、「目がライトになっても意味がないじゃないか。ライトの反射で物の形や色を見ることができるので、それが目のはずだ。ライトが出るのは目じゃなくて、ほかのところにしないとおかしいぞ」と。

今日の聖書は、神様が私たちのために送ってくれた救い主、メシア、またはキリストのことを、この世に光として来られた方として紹介しているのです。

それは、私たちにどんな意味があるのでしょうか?一緒に聖書に聞いていきましょう。

 

2,聖書

今日の聖書はヨハネの福音書の冒頭です。これは明らかに、旧約聖書の最初の書物である創世記を意識して書いていると考えられています。天地創造をされた神様が、暗闇と混とんの中に、「光あれ」といわれて光があった、というところです。神の言葉によって生まれた光、そしてそれに続く世界の万物。それに対して、はじめに言葉があり、言葉は神とともにあり、その言葉によって万物ができたと続くからです。

そして、その言葉のうちに命があり、その命は人間を照らす光であった、というのです。ここで、神の言葉が光としてこの世に来て、人を照らすものとして私たちに送られたのが、イエス・キリストであるという流れになっています。

そして、その、神によって生まれて人のもとへ来た光は受け入れられなかったけれど、それを信じる者には神の異なる資格を与えたのである、と、イエスキリストのご生涯を短く整理しながらまず説明し、イエス様のおられた時代の出来事へと話を進めていくというのが、このヨハネの福音書のスタイルでした。今日の個所の最後は、神の言葉は肉となって、私たちの間に宿られ、その栄光を見た、とクリスマスの出来事までとなっています。

 

3,振り返り

問題や苦しさばかりある私たちの人生や社会ですが、それを解決するために、神様が送られた方、イエスキリストの意味付けと、立場を紹介します。そして、受け入れられなかったことも紹介しています。そんな中でも、この方の名を信じる者は、救われるというのです。

私たちはこれをどう読むべきでしょうか?

私たちの人生は、変わるのでしょうか。変わらないのでしょうか?

冒頭に考えたように、光の意味や働きを考えてみましょう。光は、道を照らします。光で物が見え、文字も読めます。人の顔も、その表情から気持ちも読むことができます。光そのものを見つめるとまぶしいのですが、その光が照らすものは、反射されて見えるものをよく見るという意味や役割があるのです。

キリストは人を照らすための光として来られました。ありがたいことです。暗闇でも道が見え、文字が読め、人の表情もわかるからですね。しかし、忘れてはいけないことがあります。その光は、闇の中に、そっとしておきたいものをも照らし、見えるようにするのです。見たくないものも見えるようになります。

それはちょうど、年末の大掃除できれいにしようとすればするほど、普段気にしていなかった汚れが気になるのと似ているかもしれません。汚れが気になって車を洗う時にこそ窓ガラスの汚れが気になるのと似ているかもしれません。

キリストによって、その光に照らされるとき、助けられもするけれど、まず、自分の心の醜さや愚かさに気づかされもします。それを認めたくない人、そこから逃げ出したい人は、あるいは、そういう時は、光を受け入れないのです。

 

 4,勧め

光そのものがありがたいのですが、光だけを見て何かが解決するのではありません。光に照らされたものをみえるようにしてくれるのが光です。

「キリストが来られた!そして、マジックですべての問題を解決してくれる」というのが、神様の救いの計画ではありません。光として来られた方を通して、神様を知り、そして自分を知ること。その自分の良さも悪さも、素晴らしさも醜さもです。

本来神様が創られた人間の素晴らしさがあるのに、人間の自己中心が人を悪い競争や憎しみに向かわせ、人間の心を、家庭を、社会を、滅ぼしています。神を愛し、人を愛するという聖書の一貫した神様の願いを捨てて、勝手に生きるようになったのが人間、罪びとです。そんな自分の醜さと、神様の素晴らしさ、その愛の大きさを知らされ、改心して立ち変えさせるために、来られた方がキリストなのです。

デイビット神学生が高蔵寺教会で最初のころ説教をしてくれた時、こんなことを言われました。「私たちがここにいるとき、イエスさまもおられます。だから、礼拝に出ている私たちの人数だけじゃなくて、もう一人、イエス様がおられることを忘れないようにしましょう」と。そして、あとでその日の礼拝出席簿を見てみると、誰かが、合計欄の数字に線を引いて消して、一人増やしてくれていました。そのわきに「イエス様」と書いてくれていて、とっても温かい心になりました。説教をよく聞いて、よく理解されて、少しいたずら心で数字を書き換えてくれたんだなと。

でも、少し意地悪な私は後でこんなことを言いました。「僕ならねぇ。それも線を引いて消して、もう一人数字を足すよ。その横に、『悪魔』って書いてね」と。聖書研究会の時に話してみんなで一緒に笑いました。

私たちは、神様に創られましたが、神様を離れて罪の心も持っています。その悪い心を動かすものを、あるいはその動きを昔から、悪魔とかサタンとか考えていたともいえるでしょう。もちろんそういう存在や、悪霊の働きもあるでしょうが、そういう自分の中にいる罪の心、自分を動かしてしまう働きを、悪魔と考えてもいいかもしれません。

放っておけば私たちはいつも、そちらに引っ張られます。そこに、光として来られ、すべてを明るみに出し、道を示してくれる方が、イエス・キリストなのです。

私たちには、光が必要です。そんな方を、この読みお迎えしたのがクリスマスなのです。信仰を持った私たちも、たびたび、闇に引き戻されてしまいます。もう一度、キリストを心に迎えて、この光をいつも携えて生きていきましょう。そして、まだ闇の中にうずくまっている人に、あるいは時々あるそんなときの自分に、光を手渡しする役割も願われています。そんな場に、そんなコミュニティの場に、教会がもっとなりますように。

2022年12月24日土曜日

説教メッセージ 20221224 クリスマスイブ

  聖書の言葉 ルカ 2:120)(103)

21そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。 2これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。 3人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。 4ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。 5身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。 6ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、 7初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。)

28その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。 9すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。 10天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 12あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」 13すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。

14「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」

15天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。 16そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。 17その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。 18聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。 19しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。 20羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。




 

説教 「『もう』、怖がらなくてもいいよ」

 徳弘浩隆牧師

1,「恐れるな」…

クリスマスおめでとうございます。今日はいよいよクリスマス・イブですね。教会で、ご家庭で、それぞれ、大切な時間を過ごしておられると思います。

でもどうでしょう?今日は、朝から大雪。そして新型コロナもまた流行しています。今日は大雪の影響で、新型コロナの影響で、来られなくなった方もおられます。とても残念で寂しいことです。わたしも、ブラジルに青年信徒宣教師ボランティアで来てくれていた熊本の教会メンバーが来る予定でした。サンパウロで家族のようにしていましたから、私たちのことをブラジルの両親と呼んで、今回も「里帰り」と称して泊りがけで来る予定でした。しかし、飛行機が欠航になり、あきらめたと朝メッセージがありました。久しぶりの再会がだめになって、残念でした。なんだかぽっかりと寂しくもあります。

「神様クリスマスくらい、クリスマスだから、何とかお願いしますよ」と言いたいけれど現実は難しいことだらけ。家族や知り合いとの再会や、教会での温かいクリスマスが持てないこともあります。戦争もあって大混乱の世の中です。クリスマスなのに、かみさまがなんとかしてくれないのでしょうか?この現実は、どうしてでしょうか?


2,聖書

今日の聖書はルカの福音書のイエス様がお生まれになった出来事が読まれました。毎年聞いている話です。こどもたちや、先日驚いたのは高蔵寺教会のこひつじ幼稚園の卒園生ママさんたちも、ページェントの歌や役柄をまだ覚えて歌い、演じ、助けてくれたことでした。

でも、このクリスマスの出来事は、今の問題だらけの社会や世界に対して、いったい何だったのでしょうか?もう一度考えてみましょう。

大切なことは、1)まず、泊まるところが無くて、いわゆる馬小屋で生まれたという事。2)そして、天使たちは野宿をしていた羊飼いたちに知らせに行ったこと。3)そしてその後の彼らの行動。これらが今日の神様のメッセージです。

1)       泊まるところがない、居場所のなさです。私たちも、時折感じることがありませんか?気の弱い私は、パーティーに呼ばれたりすると、一人で居心地が悪くなることがあります。そもそも、学校や、家庭や、職場で、居場所が見つけにくいことがあります。誰にもあるでしょう。逆に、居場所はあるのに、だれも来てくれない、いてくれない寂しさです。クリスマスにお客さんが来ると楽しみにして、忙しく準備をしたのに、大雪で飛行機が欠航。来られなくなった部屋を見るのは寂しくつらいこと。私たちの人生にも、そんなときがあります。キリストは、そんなところから、人としての生涯を始められたのです。この方なら、私の寂しさや、つらさをわかってくれるのです。

2)       天使たちは、羊飼いに知らせに行きました。行き先を間違えたのでしょうか?エルサレムの神殿や偉い人にではなくて、人々からさげすまれていた羊飼いたちでした。居場所のない人たちに、神は使いを送り、最初にキリストに会いに行かせたのでした。私たちも、居場所のなさ、つらさや、自分の人生や仕事に意味を見出しにくくなる時、神様は使者を送り、何かを伝えようとしています。

3)       そして、羊飼いたちはキリストに会いました。それは、そのメッセージを、他人事として聞いたのではなく、「さあ、ベツレヘムに行こうではないか」と行動したのです。たくさんの羊はどうしたのか、それほどたくさんいなかったのはは語られていませんからわかりませんが、尋常ではなかったことかもしれません。船や網を置いてキリストに従った最初の出来たちの話はよく聞きますが、この羊飼いたちもすぐそばではなくて、「ベツレヘムに行こう!」といったくらいですから、それなりの距離があったのかもしれません。


3,振り返り

私達はどうでしょうか?

居場所のなさや、だれもそばに訪ねてきてくれない寂しさを感じるとき、キリストなら私の気持ちを知ってくれると、キリストを見上げましょう。

仕事や今の立場に不満や不安を感じるときに、そんな自分に使者を送りメッセージをしてkる得る神様の声に耳を澄ませましょう。

そして、「ああ、そうですか」と他人事としてではなく、勇気を出して、何かを始めてみましょう。

その時、お生まれになったキリストに会うように、私たちに心にも、キリストがお生まれになってくださるのです。


 4,勧め

「恐れるな。私は、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」という言葉を聖書から聞きました。しかし、私たちの人生は、依然として、恐れや、怒りや、心配でいっぱいです。あの「恐れるな」という言葉は、あの日のあの羊飼いたちへの言葉であったのと同時に、その後のべ手の人へのメッセージでもあったのに、です。私はどもの頃、の天使の役を劇でしました。母が父の反対で教会に行けなくなっていたころ、近所の家庭集会には週日に行っていました。そこで、手作りの聖誕劇をしようという事になったのです。私は小学校2-3年だったと思います。白いシーツを着せられ、頭に星かわっかをつけて、兄と二人でこのセリフを覚えさせられました。

ブラジルへ行くとき、ブラジル人がわかりやすくて覚えやすい名前も塚たらいいよと、先生に言われてつけた自分の名前は、迷わず、「ガブリエル」でした。

神様は、問題だらけの社会や世界に、使者を送って、悪い奴をやっつけてしまえばいいのに、どうしてそれをしなかったのでしょうか?天使の行き先は、マリア、ヨセフ、そして羊飼いたちでした。

それは、地上の王様のように力やお金で人々を支配するのではなくて、一番弱くて、つらい、居場所のない人の側にキリストを送り、その愛によって社会の常識をひっくり返し、愛によって収めるためでした。

ではなぜそれが実現していないのでしょうか?

それは、それを聞いて、出会っている私たちが、「ストーリー」としてクリスマスを楽しみ経験しているだけだからです。

「怖がらなくてもいいよ」と言われたのは、「もうこれから先、ずーっと、怖がらなくてもいいよ」というはずだったのに、私たちは他人事として聞き置いているから、何も変わらないのです。

今日の式次第の表紙の絵を見ましょう。その言葉は、「私はクリスマスに祈ります、毎日、幼子のキリストがあなたの心に生まれてくださるように」

クリスマスに、キャンドルをともしています。しかし、数日前に衝撃的な言葉を聞きました。「もうすぐクリスマスです。クリスマスにはキャンドルをともすでしょう。私たちもそうします。しかしそれは、先生の聖で、停電しているからです。」と訴えたのは戦時下のウクライナの大統領でした。

私たちの愛と平和はどこに行ったのでしょうか?キリストがもう一度私の心に生まれてくださるよう、すぐ忘れてしまうから、毎日生まれてくださるように、そう祈りましょう。神様の愛と平和が私に、そして私を通して多くの人に広まりますように。アーメン