クリスマスや年末のグッズや宣伝を見るようになりました。教会の社会福祉法人でも、来年のカレンダーやクリスマスグッズの案内をしています。今までの生き方や、それを振り返り、神様に祈るとき、どんな風にお祈り、お願いしますか?そんな時にぴったりのお話をイエス様は今日しておられます。一緒に聞いていきませんか?
聖書の言葉 ルカ18: 9~14 (新144)
18: 9自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。 10「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。 11ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。 12わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』 13ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 14言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
説教 「過去のない聖人はいない」 徳弘浩隆牧師
1,年末の足音?
先週は、静岡県袋井市にある教区が設立母体となった「デンマーク牧場福祉会」の委員会があったので、私も出席してきました。翌日は教会の方々との懇談会をしましたが、少し朝の時間を間違えて時間ができたので、袋井市にある二つの行きつけのお店に行きました。宣教研修生のDavid神学生も連れていきましたので、良い経験になればと、一つはブラジル人が運営しているブラジルのスーパーマーケットです。10年という短い間でしたがブラジルに住み、二つの文化の違いやそれぞれの良さを感じて変わってきた私と、日本で生まれ育ったアメリカ人のDavidさんとの旅はとても楽しいものでした。
そのスーパーでは彼も買い物をし、日本の中のブラジルという異文化体験をしたようです。私は、懐かしいブラジルのお菓子や食品を見て、ついいくつか買ってしまいました。そしてお店の人とポルトガル語で冗談を言いながらおしゃべりをして情報交換も大切な宣教の足掛かりと思っています。そんな中、売り場でパネトーネというパンのようなケーキが積まれているのを見つけました。それは、イタリア由来のお菓子ですがブラジルではクリスマスの定番です。年末になるとブラジルではスーパーに高くピラミッドのように積み上げられて、季節を感じながら、みんな買っていきます。あちらのクリスマスケーキといったところです。
それを見て、えっ?去年の売れ残りかな?ととっさに思いました。しかし落ち着いて考えると、もう11月になりそうですから、クリスマス、そして年の瀬というときなんだなと、驚いてしみじみしました。
教会のカレンダーも、もう、ひと月ほどでおわり。日曜日は5回で終わりとなります。教会は、1月1日が新しい年の始まりではなくて、11月最終日曜日くらいの待降節・つまりクリスマスを待つ準備をする日々からもう、新しい年になります。聖書日課も、ルカによる福音書を呼んできましたが、あと数回で終わり。来年はマタイによる福音書を読みながら、イエス様のご生涯をたどり学んでいくことになります。名残りを惜しみながら、あと数回ルカの福音書を呼んでいきましょう。
そんなわけで、選ばれる聖書の言葉も、イエス様の最後の言葉や、世の終わりという事に触れ始めます。
2,聖書
ルカの18章9節からが今日の日課ですが、実はここまでは、「終末についての警告」、そして「人の子が来るときには」という、世の終わりを見据えるお話でした。その続きで、今日のイエス様のたとえ話につながっていきます。そういう流れの中のお話だと、気をつけて読まねばなりません。
先週は一生懸命祈ることを教えられました。そして今日は、二人の人の祈りを比較しながら、祈りについて、信仰について教えられます。
登場人物は二人、聖書の掟をきちんと守るファリサイ派の人、もう一人は支配する異教の国ローマへの税金も二重に取り立てる嫌われ者で罪深いと思われていた徴税人です。場所は、神殿でした。
この二人の生きざまはとにかく、祈りの違いが問題になります。
生きざまは、ファリサイ派の人は自分で言っているように、「罪深くないもので、聖書の教えの通り、あるいはそれ以上に、週に二度断食をし、全収入の十分の一を献金」していました。模範的な非の打ちどころのない信仰者といえるかもしれません。
それに対して徴税人は先ほど言った通り、嫌われ、権力をかさにさえ着て取り立て、私服も肥やしていたといわれる生き方でした。罪びとの代表の一人ともいえるかもしれません。
さてこのたとえ話は、そこでイエス様のお話が終わって、生き方を見つめ、教えたのではありませんでした。ここからが大切なところです。
その生きざまはともかく、その中での祈りの言葉をイエス様は問題にしました。模範的な宗教生活をしていた人の祈りと、罪びとの代表のような生活をしていた人の祈りですが、それぞれの祈りを神様が聞かれて、義とされて帰ったのは、ファリサイ派の人ではなくて、徴税人だったという逆転があるのが、イエス様のお話の大切なところです。
3,振り返り
私たちはどんな祈りをしているでしょうか? 先週は熱心にあきらめないで祈り続けることを教えられました。そこで、どんな祈りをする一週間を過ごしましたか?思い出してみてください。
神様の願い事をするときに、私たちが自然に良くする姿勢はこうではないでしょうか?
「かみさま、私は○○をします。だから、私の願いを聞いてください」、「私は○○してきました。だから、聞いてください」、あるいは、「私はもう○○をしないことを約束します。だから、どうか、私の願いを聞いてください」と。見に覚えがありませんか? 私はあります。すぐ、つい、そんな神様と、取引をするようなお祈りになってしまうものです。それに対して、イエス様は全く違った答えを今日私たちに突き付けています。
「こんな罪深い私を憐れんでください」という罪深い人間の祈りのほうが神様に聞かれる、赦されるというのです。毎日の行いや、その積み重ねや、一生懸命な、時には自己犠牲の人への奉仕が救いの条件ではありません。何もできていなくてもいい、静かに座って、謙虚に神様にお詫びをして、祈る言葉、それが大切でした。
4,勧め
ルターは、「私たちは、罪をゆるされた罪びと」だといいます。それは、とても私の心を打ち、安心させてくれたのを覚えています。「教会も、立派なクリスチャンの集まり」とばかりは言えず、むしろ「罪をゆるされたけれど罪びとのままの人の集まり」ともいえます。「義人にして同時に罪人」ともいわれます。一生懸命に努力して、正しく清く生きていることを誇り、ついにはそうしていない人を見下すような心は、神様が喜ぶことの逆の方向でした。罪深さをよくよく知って、それを隠さず神様に告白して、憐れみを願う、それが、イエス様のお勧めになる姿でした。
ルターだけではなくて、カトリック教会の今のローマ教皇がことわざとして紹介してくれた言葉も心にしみます。「過去のない聖人はいないし、未来のない罪人もいない」(教皇フランシスコ、2016年4月13日の一般謁見演説)
私たちの過去はどうでしょうか?現在はどうでしょうか?仮にそれが、神様の前で誇れるものではなかったとしても、それは関係ありません。罪を知り、神様にゆるしを願い生きるときに、どんな人にも未来があるのです。
頑張らないで、安心して、一緒に生きていきませんか。
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牧師コラム
少し気が早い気もしますが、クリスマスや新年のグッズの売り出しが始まりました。
先週は、静岡県袋井市のデンマーク牧場福祉会の委員会があり、教区長として出席してきました。
デンマーク牧場福祉会は、教区の「福祉村構想」というビジョンと祈りから出発して、来年で20年を迎えます。社会福祉法人として独り立ちを始めていますが、その開業資金は教区内の会員の募金と教区が借り入れをして賄いましたが、それもようやく再来年で返済が終わる予定になりました。
社会や教会の状況も変わり、初期の構想は見直しや取捨選択、新しい取り組みも必要になってきました。教区や教会組織の在り方も、今の時代や状況にあった、より良い形に整えねることが願われています。皆さんのお支えをよろしくお願いします。年末に、これらグッズをご利用ください。社会福祉法人の運営を助けることになります。
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