2022年10月1日土曜日

説教メッセージ20221002

聖書の言葉 ルカ17: 5~10 (新142)

17: 5使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、 6主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。

7あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。 8むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。 9命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。 

10あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」



説教 「自分に信仰があると思う不信仰」  徳弘浩隆牧師

1,もっとたくさんあったなら…

「もっと、もっとたくさんあったら、どんなにいいだろうに」と思う事は誰にもあるでしょう。それは、お金でも、食べ物でも、ケーキでも…。どうしたらいいのでしょうか?とイエス様に尋ねると、「何をそんなことに気をもんでいるのか!」とぴしゃりと怒られてしまいそうです。「まず神の国と神の義を求めなさい。ほかのものは添えて与えられると、言ったじゃないか」と想定問答集が作れそうです。

でも今日の聖書のなかの問いかけは、そんな俗的なものではなくて、もっと素晴らしい問でした。「信仰」についての問答だったからです。

もっと食べたい、もっと有名になりたい、もっと楽がしたいという欲望ではなくて、もっと信仰があったらと願うのは、次元が違うほどの、素晴らしい願いであり、問いであると思います。

しかし、今日のイエス様のお答えは、「いいことを聞いてくるねぇ。」でも、「そんな素晴らしい願いを持っているのなら、特別の方法を教えてあげよう」ではありませんでした。その答えはどんなものだったのでしょうか?

いっしょに聖書し学んでいきましょう。

2,聖書

弟子たちの問いかけや願いは、「どうしたら信仰が増し加えられるのか。イエス様、どうぞ、私の信仰を増してください」と、そんなものでした。

それに対してのイエス様の答えは、一見冷たいものでした。有名なたとえ話です。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」でした。

「これは、からしだね程の小さな信仰でいいんだよ。それさえあれば、とんでもないことが起こるんだよ」とも聞こえますが、「からしだね程の小さな信仰でもあるなら、とんでもないことが起こるのに、あなたたちは、それさえもないんだよ」という風にも聞こえてきます。

私はその二つ目に聞こえてきます。なぜなら、「からしだね程の小さい信仰でもいいんだよ」という肯定と慰めの言葉だとすると、それを持つための方法が説明されていないし、続きのたとえ話を読むと、「当たり前のこと、やるべきことをやったら、それを自慢しないで、謙虚にしていなさい」という言葉が続くからです。

ではなぜ、弟子たちは、そんな質問をしたのでしょうか?それを考えると、深い意味を知ることができます。今日の5節からの前の1節から4節には、イエス様のこんな教えがあります。「つまずきは避けられない」「兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。」、「悔い改めたなら、赦してあげなさい」、そして「一日に7回そんなことがあっても、7回悔い改めるといってきたら赦してやりなさい」といわれました。

それを聞いて、「いや、自分にはそんな信仰はないなぁ」いったいどうしたら信仰が増えるのかなぁ」と思い、質問したと考えることができます。

しかしそれへのイエス様のお答えは、先ほど読んだ通りでした。

3,振り返り

 私たちは、どうでしょうか? たくさんの信仰を持っているでしょうか?大きな信仰を持っているでしょうか? 

仮に、イエス様にこう問われたらどう答えますか?

「100点満点で考えると、あなたの信仰は何点くらいですか?」と。相手がイエス様ならとっても遠慮して恐れ多いのでとなれば、牧師から聞かれたらという事でもいいかもしれません。どうこたえるか、少し考えてみませんか?

 「自分は70点くらいかなというのが謙虚かもしれないな」。とか、「いや、自分は半分くらいという事で50点くらいと言っておこうかな」と、もっと謙虚に考えるかもしれません。

それに対するイエス様のお答えは、今日の聖書の問答からすると、こういう風かなと私は思えてきます。「いや、あなたの信仰は、0点だよ。」と。「なぜなら、あんな小さなからしだねくらいの信仰があれば、驚くことが起こるのに、それもないじゃないか」と。

そもそも、「信仰を増すにはどうしたらいいでしょうか?」という問いがおこがましいと、怒られるかもしれません。「増す」というには、「もうすでにそこにそれを持っている」という事だからです。

そうすると、何かを成し遂げたときに、「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」といいなさいと言われる言葉と合点がいくからです。

4,勧め

 私は牧師になって最初の10年間くらいは、全国の中高生キャンプにかかわり、妻と一緒にいつも企画して実施し、中高生向けの新聞を作って送ったりもしていました。その後、TNG委員会という事で、幼児から、小学生、中高生、そして青年会までの企画を一緒にしました。高校生や青年は、アメリカやインドやカンボジアに行くワークキャンプも企画し、実施しました。そんな流れの中から、後輩の面倒見てスタッフに加わってくれたり、青年会から牧師候補生が生まれて神学校に行ったり、暫くいい流れができていました。あの頃のこどもたちや、青年が、神学生になって、牧師になったという人も何人もいます。

 そんな後輩牧師と懐かしい話をしていた時、ある人がこういいました。「先生、あの頃は私も大変な問題児だったと思います。いろいろ迷惑をかけました」。そこで私は答えました。「何言ってるの、そんなことないよ」。すると彼はほっとしたような明るい顔になりました。でも私は続けました。「あなたは問題児じゃなくて、問題外だったよ」と。

私たち一人一人の信仰者も、「問題児ではなくて、問題外」。「不信仰ならまだいいほうで、無信仰」というくらいの自己認識がなければならないと思います。

ルターに言葉にこういう言葉があるそうです。「信仰とはある人々が信仰だと考えているような、人間的な妄想や夢ではない。信仰は私たちのうちにおける神のわざである」。自分で多い少ないを考えたり、どうしたら増やせるかを考えるのは、まだそれがわかっていないという事でしょう。自分に信仰があると思うのは、実は不信仰な姿なのです。なんと逆説的ですね。

「自分には何もありません。だから、神様あなたにお任せします」という無条件降伏の姿勢。それが、信仰といえるかもしれません。そこには、自分の知恵や名誉や役職や経験や、財産や書物や知識も、すべて投げ捨てて、神様にお任せして生きていくという姿が残ります。もちろん病気や社会の問題に対して、分析したり解決の糸口を見つけるためにはそれらも大切です。しかし、人生の大きな問題では、それらを一度投げ捨てて、すべてを神様にお任せしたら、なんと今まで自分はいろいろなものにとらわれていたのか、という事を痛感します。それが、今日のイエス様のお答えのように、私には聞こえてきます。教会の群れの中で、それを一緒に生きていきましょう。

  


ウクライナ戦争、教会の支援の今 

献金やチャリティコンサートもありましたが、その後どうなっているのでしょう。LWFのニュースサイトからの現地の声を、何回かに分けてお知らせします。

LWFキャッシュセンターがウクライナ難民のポーランド定住を支援(LWI 2022/08/31) 

 昨年のこの時期、アナスタシアは黒海で休暇をとっていました。今年は毎日海を見ていますが、同じ海ではなく、観光客でもありません。 3 月初旬、彼女は 2 人の子供と母親と一緒にウクライナでの戦争から逃れました。アナスタシアは、ポーランドのグダニスクで一時的な家を見つけました。彼女の夫と父は国のために戦うために残りました。アナスタシアは、主に国連難民高等弁務官事務所 (UNHCR) から資金を得て、全国のルーテル世界連盟 (LWF) 多目的現金支援登録センターを通じて財政援助を受けている 60,000 人の 1 人です。バルト海に面したグダニスク市では、ウクライナからの難民が、夏休みにここを訪れる観光客と混ざり合っています。しかし、彼らの経験はまったく異なります。不安定な状況下での生活の整理、戦争のトラウマ、子供や年配の親の唯一の世話は、母親にとって特に困難です。アナスタシアと彼女の家族は、最初はポーランドの家族に引き取られ、とてもよく世話をしてくれました。家族はグダニスクの近くの小さな町に住んでいましたが、ポーランドの軍事基地の近くにもありました。アナスタシアはそのことを知りませんでした. 「最初、飛行機が通り過ぎる音を聞いたとき、私たちはすぐに逃げ出したいと思いました」と彼女は語ります。

私たちが望むものは、平時に人々が持っているものだけです。私たちは、自分自身と子供たちの安定と安全を望んでいるのです。


0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。