今週の聖書の言葉
05月01日 ヨハネ21: 1~19 (新211)より
シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。 3シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。 4既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。 5イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。 6イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。 7イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。
(中略)
15食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。 16二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。 17三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」
説教「使い分けでなく、回心」徳弘浩隆牧師
1.ハッピーエンドと思ったけれど…
続きもののドラマを見ていて、ハッピーエンド・問題解決してすがすがしく終わるものが多い中、そうでないものもありました。「水戸黄門」と「渡る世間」といえば「なるほど」と思われる方も多いかもしれません。こどものころ祖母と一緒に水戸黄門を見ていると、途中でハラハラして盛り上がる祖母をわき目に、冷静な自分がいました。大丈夫だよ、もう40分過ぎたから助っ人が来て正体を明かして万事解決だよと、子供心に思っていました。小学生の孫を持つ祖母は60歳過ぎでしたから、今思うと今の私も同年代で驚きますが。一方、万事解決してやれやれと思うところで、新しいイザコザの始まりが見えて続きは来週というドラマもありました。気になって来週も必ず見るという上手な余韻の残し方だとも思いました。
さて、今日の聖書のヨハネの福音書も実は、20章で「本書の目的」と後に小見出しがつけられたように、終わったかに見えますが、21章がありもう一波乱あります。ヨハネの弟子グループで後に伝承エピソードを書き足したとか、いろいろな解釈もあります。仮にそうだとしてもそれも神様のなさる業でしょう。今日の出来事は私たちに何を語っているのでしょうか。
2.聖書
十字架につけられたイエス様は葬られますが、3日目に復活されました。マグダラのマリアがそれを知り、弟子たちに伝え、ペトロは急ぎ墓に走りました。その後、弟子たちに現れました。ちょうどそこにいなかったトマスは信じませんでしたが、別の日にトマスも一緒にいる弟子たちの前にイエス様は現れ、平和の挨拶をし、疑うトマスに十字架の傷跡の手のひらを示し、信じさせました。そこで、まとめの文章のような言葉が入ります。しかし、それが終わりではなくて、今日読んだ21章に続くという事です。
奇妙に思えることですが、弟子たちはガリラヤ湖畔にいました。復活の主と会ったエルサレムからガリラヤは、150キロほどですから、高蔵寺や復活教会のあたりから袋井市のデンマーク牧場くらいの距離です。後悔と恐れから、復活の主に会い赦され信仰へ導かれたのに、故郷に帰っているのです。何もなかったかのように?「わたしは漁に行く」と言い出したペトロと他の弟子たちも従い漁に行くのです。
漁をしても何も取れませんでした。そこに現れたのがイエス様。いわれるとおりに船の右に網を打つとたくさんの魚が獲れます。153匹だったとさえ書かれていて興味深いところです。その後、食事を共にし、パンを分け魚も焼いていただきました。そして食事の後、ペトロはイエス様に聞かれます。「あなたは私を愛するか」と、3度もです。そして「私の羊を飼いなさい」と命じられるというのが、今日のところでした。
3.振り返り
ハッピーエンドで1件落着と思ったら、まだ続きがありました。その出来事の意味は何でしょうか?
それは、今年読んできた聖書を思い出せばわかってきます。ガリラヤ湖畔で声をかけられたこと。漁をしてもだめだった後に言われるとおりにしたら溢れるほど魚が獲れたこと。パンと魚で食事をしたこと。パンを分け与えられた時目が開かれたこと。それらすべてを走馬灯のように思い出さざるをえない出来事でした。
彼らは、エルサレムで主の復活に会うという大きな出来事の後、故郷に戻り昔の仕事をしていました。何か事情があったのかもしれませんが、もうあれはなかったことだったかのように、昔に戻っていたのでしょうか?信仰を失い、もとの人生に戻ったのでしょうか。
そうだとしたら、なんと残念な悲しいことでしょうか。しかし、私たちはそれを笑えません。サンデークリスチャンという言葉がありますが、日曜日だけクリスチャンで他の日々は家庭や職場や地域社会では昔の自分を生きているという事を揶揄して言う言葉です。
悔い改め、賛美し、聖書を学び、祈りますが、帰れば昔の自分を生きている。それほどでなくてもそういう自分が時々いる、という事は誰もが体験し反省するところです。クリスチャンとそうでない自分を使い分けている面があるかもしれません。もし今日の弟子たちがそうだとしたら、どのようにして神様は取り返し、本当の回心へ導かれたのでしょうか。
それをするために、イエス様と体験した出来事をおさらいするような出来事が今日起こったのです。それらを体験しながらイエス様ともう一度出会ったのです。
そして決定打はこうです。「鶏が鳴く前にあなたは私を知らないと三度言う」と言われたた通り、イエス様を裏切ったペトロは、「私を愛するか?」と三度尋ねられます。そうして彼を本当の回心に導き、そのうえで苦しむ民やイエス様に従う者たちの面倒を見るよう、託されるのでした。
そう思うと、ヨハネの福音書の最後は、とってつけたように追加したのではなく、神様が弟子たちを「信仰を使い分ける人生から、本当の回心へ導かれる出来事」として必要な出来事であり、彼らの不信仰と信仰を総決算して送り出される大切な出来事だったのだと、納得させられるのです。
4.勧め
あなたにとって、神様との出会いはどんなことでしたか?聖書の言葉が心にしみたり、悔い改めたり、元気づけられたり、赦されたり、神様に愛されていると思わされたいくつかの出来事があるでしょう。時として、信仰者とそうでなかった時の自分を使い分けるような自分もあるかもしれません。そんな時、神様との出会いを思い出しましょう。もう一度追体験しながら、そして、大きな過ちもご存じでそれを赦してくださったイエス様をも思い出しましょう。本当の回心へ導かれて、愛のある生き方をし、心配や絶望や、迷いや、困難の中にある方々に奉仕しましょう。あなたにしかわからない、あなたの出番が必ずあるはずです。
「私の羊を飼いなさい」とは、そんな方々に手を差し伸べ、助け合い一緒に生きていきましょう、という事だと私は聞きます。153匹の魚は、当時魚の種類が153種類あると信じられていたという説もあります。世界中、すべての人に、愛と希望を伝える一人のキリスト者として、生きていきましょう。
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