2022年4月9日土曜日

説教メッセージ20220410

聖書の言葉 

4月10日 枝の主日 / 主のエルサレム入城 (紫)

ルカ19:28~40 (新147)

19: 28イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。 29そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、 30言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。 31もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」 32使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。 33ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。 34二人は、「主がお入り用なのです」と言った。 35そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。 36イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。

37イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。38「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。」

39すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。 40イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」


説教「石でも叫ぶ神の愛」徳弘浩隆牧師

1.導入

今日は「枝の主日」です。棕櫚主日とも呼ばれてきましたが、イエス様がエルサレムに入城されるところです。その時人々は、王様を迎えるように、服を道に敷いて絨毯のようにし、他の福音書の伝承では棕櫚の葉などを振って大歓迎したからと言われています。

私たちにはなじみがなくて分かりに風習かもしれませんが、外国から賓客が来られた時にその国の国旗を手にして振りかざしながら、歓迎するというのが似た光景かもしれません。戦争で勝った王様が凱旋帰国するときに、「万歳」を叫びながら国旗を振るというのも分かりやすいですが、戦争の風景は今の私たちには暗く重くのしかかり、考え直さなければいけないと思わされています。決して素晴らしいものではないと思い知らされているからです。

さて、今日の聖書の個所では、どんなことが起こり、イエス様は何を語られたのでしょうか。そしてそれが、今生きている私たち一人一人に、どんな神様からの語り掛けなのでしょうか?一緒に聞いていきましょう。

2.聖書

ルカによる福音書は、全体が大きく三つに分けて考えるとわかりやすいといわれます。1)イエス様の誕生と最初の働き(1章-9a)、2)エルサレムへの旅路とそこでの教え(9b-19a)、3)エルサレムでの最後の週(19b-24)となっています。今日のところは3)の冒頭部分とも言え、受難と十字架の死が待っていることを承知していながらそれに向かっていかれるところです。

イエス様は不思議な方法で馬ではなくロバを調達し、それに乗ってエルサレムに入っていかれます。人々は王様を迎えるかのように服を道に敷き大歓迎、弟子たちは今までの奇跡を思い出しながら大声で神様を賛美します。感極まり、いよいよ、その時が来たと思っていたのかもしれません。

その騒ぎを見て、ファリサイ派のある人たちは敵意を感じたのでしょう、彼らを黙らせるようイエス様に求めました。しかしイエス様は、「弟子たちが黙れば石すらも神の偉大な御業をたたえて叫びだす」と言われたのです。そこには、誰にも止めることができない、黙らせることができない、大きな神様の計画と偉大さがあったからです。

3.振り返り

今日はそこから何を学ぶべきでしょうか?

私たちも、言いたいことを言えないときは、もどかしく、苦しいものです。昔、吉田兼好も「おぼしきことは言わぬは腹ふくるるわざなれば…」と言っています。

しかし、何をやっても分かってもらえず、絶望の淵にいるときには、何も言いたくなくなり、苦しいものです。「私は貝になりたい」という言葉を思い出します。これは、戦争犯罪者を扱った映画やドラマで、実際の出来事を基にしたフィクションですが、上官の命令で捕虜を刺殺した理髪店主が戦後にC級戦犯として逮捕されて処刑されていく物語でした。「けれど、こんど生れかわるならば、いや、私は人間になりたくありません。牛や馬にも生れません、人間にいじめられますから。どうしても生れかわらなければならないのなら、私は貝になりたいと思います。貝ならば海の深い底の岩にヘバリついて何の心配もありません。兵隊にとられることもない。戦争もない。妻や子供を心配することもない。どうしても生まれかわらなければならないのなら、私は貝に生まれるつもりです」という手記を基にしています。「もう、貝になってしまいたい」それは、人間の罪深さや醜さや無力さで追い込まれていき、貝なら、海の底で岩にへばりつき静かに生きていける、また、貝のように口を閉ざして生きていきたいという、あきらめと嘆きの気持ちが伝わってきます。

私たちも今、人類の罪深さを毎日見せつけられています。驚き、憤り、非難もします。しかし、それは私たちもいつか来た道、似た過ちや戦争をしてきた歴史の後を生きています。戦争犯罪を一般化して擁護するわけではありませんが、私たち誰もが心の奥底に持っている罪深さを、見せつけられ、批判するだけではなく、悔い改めさせられます。人類の罪を共に詫び、愛と、平和を求めたいと祈らされます。

4.勧め

では、私たちは何ができるでしょうか。人類の罪に翻弄され、海の底で貝になってしまいたいような気持になっても、神は、神の愛は、皆が黙らせたとしても、石さえも叫びだすほどの確かなものがあると、イエス様は言われたのです。神様は叫びたいのです。事実、預言者を通して、怒り、裁き、しかし、赦し、立ち返ることを呼び求め、叫んできました。そしてそれが、イエスキリストを通してこの世にあらわれ、人々と共に生き、おしえ、仕え、最後の道のりを進んでいかれます。

イエス様は弟子の信仰の告白に対して「あなたをペトロと呼ぼう。その石の上に私は教会をたてよう」と言われ、石は確かな信仰の告白の象徴とも考えられるようになりました。しかしその固い頑固な信仰告白は誤ると他の信仰を否定し、その石を投げつけてクリスチャンの最初の殉教者ステパノは殺されました。

私たちも、石のように確かな信仰を持ちたいものですが、それが自分本位のものではいけません。神の愛を叫ぶような石、そんな信仰告白でなければなりません。そして石さえも叫ぶ神の愛は、私たちの石のような信仰によって、この世に叫ばれ、他者に寄り添い奉仕することによって、実現されていくのです。

今でもイスラエル・パレスチナにはたくさんの遺跡があり、クリスチャンも何十万人が訪問します。ありがたそうに石の柱をさすり祈り、イエス様のころを思います。しかし、去年東海教区で一緒に学び対話したベツレヘムルーテル教会のミトリ・ラヘブ牧師は、こういいます。「何十万人の人々が来て遺跡の石を見てさすっていきます。しかし、本当に見てほしいのは、いける石。ここで生きてきた信仰者たちであり、今生きて紛争の中で苦しんでいる信仰者たちという石を見てほしい」と。

私たちも、神様の愛を叫び、実現するものにされていきましょう。


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