今週の聖書の言葉
4月17日 ルカ24: 1~12 (新159)
24: 1そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。 2見ると、石が墓のわきに転がしてあり、 3中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。 4そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。 5婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。 6あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。 7人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」 8そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。 9そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。 10それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、 11使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。 12しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。
説教「探し物と、探す場所」
徳弘浩隆牧師
1.探し物は何ですか?という歌と引越
引越をしました。3年前にブラジルから帰国して岐阜県に引越し。その10年前にブラジルへの引っ越し。たくさんの荷物は、実家や倉庫にあずかってもらいました。ブラジルでは3年の予定でしたが、神様のおかげで教会の人数も増えて7年に、そしてあと3年延長して、合計10年いましたので荷物も増えました。そして今回愛知県に引越。新しい町は世界中どこでも好きですから引越は苦ではありません。出会いと、新しい勉強、そして自分も変えられていくのが楽しいです。しかし、まだ、どの箱に入れたか忘れて、見つからないものがたくさんあります。少々不便です。
「探し物は何ですか?」という古い歌を思い出します。最近でもCMで若い人がカバーして歌っているのを聞きました。この歌は、「探すのをやめたとき見つかることもよくある話」と続きます。
2.聖書
今日の聖書は、十字架で亡くなり、洞窟のお墓に葬られたイエス様に会いに、週の初めの日に朝早くお墓に行った女性たちの話です。金曜日の午後3時に息を引き取られ、日が暮れる前に急いで葬りました。それは、ユダヤ教では、日が暮れると次の日になるという考え方でしたから、土曜日の安息日になる前に葬る必要があったからです。女性たちは香料を持って墓に行きました。
しかし、重い石を転がして洞窟をふさぐ扉になっていたものがわきに転がしてあり、中を見ると、イエス様のご遺体はありません。途方に暮れていると天使のような人が現れ、こう言いました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない」と。それで彼らはイエス様が前に話しておられたことを思い出し、それを信じて他の弟子たちに急いで会いに行きました。弟子たちは最初それを信じませんでしたが、ペトロは走って墓へ行き、それを見て、驚きながら家に帰ったのです。
3.振り返り
私たちの探し物は何ですか?引っ越しの後、TVのリモコンだけが出てこないとか、パソコンとモニターは出てきたけれど、ケーブルが出てこないので教会のパソコンがセットできないのは今の私です。
でも、人生はいろいろなものも探し物の連続です。それは、引っ越しの後や、年を取ってきたから物忘れがひどくなったとか、そういう事だけではありません。
人はみな、何かを探して生きています。希望、安心、仲間、健康、お金、名誉…、いろいろな言葉が思い出されるでしょう。最近のニュースを見ると、感染症から守られる健康、戦争が終わる平和、そんなものも私たちは、探しています。どうしたら、見つかるでしょうか?聖書は、神様は今日、私たちにどう言っておられるでしょうか?
聖書はこう問いかけます。「なぜ生きておられる方を死者の中に探すのか?」と、私たちも、あくせくと探している、なかなか見つからないものは、そもそも、探す場所を間違っているのかもしれません。
人と人の争いは、友達や家族、社会から世界の戦争に至るまで、原因と解決策はそれぞれ違うとふつう思います。それを探して一生懸命になります。しかし聖書は言います。すべての人は罪びとだと。一人の心の中の葛藤・争いも、人間関係の争いも、国と国の戦争も、規模は違うけれど、原因は同じ。私たちが皆、罪びとだからです。自己中心の心です。神を愛し正しく生き、他者を愛することができなくなったと聖書は説きます。自信過剰も自己嫌悪も、他者の喜びを一緒に喜べないことも、人を許し、愛することができないのも、これが原因。心の中の小さな嵐も、人との衝突も、国と国の戦争も、探していた原因は同じでここにあるのです。そして、私たちそれぞれが、自分の罪を認め、謙虚になって、互いを尊重し、愛し助け合うのが、神様の願い。そこに解決の答えがあるのに、違う所を一生懸命探していたのです。探し物はここでした。
4.勧め
神の愛を説き、敵を愛せよといい、上着を取るものには下着をも与えよといわれたイエス様は、そのように生き、自分を裏切る人を赦し、命さえ投げ出されました。神様彼らは何をしているのかわからないのです、赦してあげてくださいと、祈られたのです。
その姿を見て、本当の神の愛を知り、今までの自分を悔いて、私たちの新しい生き方が始まりました。それが聖書の言う信仰です。何かを無理やり信じて、一生懸命行う事ではありません。
肩の力を抜いて、ただそれを受け入れ、新しい人生を一緒に始めましょう。今までの努力は素晴らしかった。しかし、探す場所が違っていたのです。神様の愛を見つけた、いや、神様に見つけてもらった、そんな自分と一緒に生きていきましょう。
あなたにしかできないことがあります。似た苦しみや悲しみを持つ人を助けるために。あなたは、とても貴重な存在です。教会を通して、たくさんの人と出会い、一緒に生きていきましょう。私たちのつないだ手の先に、もっと多くの人の手がつながり、世界に広がるなら、平和な社会は、神の国は、そこにあるのです。
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