2022年4月23日土曜日

教会だより・説教メッセージ 20220424

 


聖書の言葉

4月24日 ヨハネ20:19~31 (新210)より

20: 19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」


説教「あなたがたに平和があるように」 徳弘浩隆牧師

1.「こんにちは」ということばの語源は?

私たちは日中に人と出会えば「こんにちは」といいます。夜なら「こんばんは」ですね。しかし、その由来や意味をあまり考えたことがないでしょう。外国人に日本語を教えていると、いろいろと気づかされます。

語源は何でしょうか?「こんにちは」は、「こんにちわ」と書かないことを見れば、わかります。これは、「こんにちは(今日は)、ご機嫌いかがですか?お元気ですか?」というあいさつの、最初の部分が残ったからだといわれています。となると、「こんばんは」も同じだとわかります。朝の「おはようございます」は、「おはようおつきですね」のように「早くから○○ですね」というあいさつの名残だそうです。

他国の挨拶はどうでしょうか?いろいろあるでしょうが、こういうパターンが多いことに気づきます。

1) 「良い朝を、良い日を」という願いや祝福の言葉をかけあうあいさつ。「Good morning」といえばわかるように、「良い朝になりますように」の意味で、ドイツ語やラテン語系のスペイン語、ポルトガル語などでもそういいます。

2) 「平和を」「安心を」という願いをかけあうあいさつ。ヘブライ語で「シャローム」やアラビア語「アッサラーム・アライクム」と言いますがもとは「平和」の意味ですし、韓国語のアンニョンは昔は漢字で「安寧」と書いていたそうです。

今日の聖書では、復活後弟子たちの前に現れたイエス様はどういわれたでしょうか?それはどんな気持ちが込められていたでしょうか?

2.聖書

イエス様は「あなたがたに平和があるように」と言われたとあります。しかし、この言い回しはすでに当時「こんにちは」という意味で普通に使われていたといわれます。「こんにちは」や「アンニョン」や「シャローム」「アッサラーム」というあいさつと同じように、本来の意味ではなく、普通にあいさつとして使っていた言葉だったのです。しかし、「だから、聖書の翻訳が間違っている」とか、「この翻訳は意味を込めすぎている」ということでもありません。

なぜなら、この時、イエス様は、「やあみんな、こんにちは」というだけでなくて、「びっくりしないで、安心しなさい」という気持ちと、「あなたがたに平和があるように」という意味を本当に、そして深い意味で込めておられたはずだからです。

それは、十字架で死なれた後よみがえって現れたからです。しかも、自分を見捨てて、見殺しにしたともいえる弟子たちの前に現れたからです。弟子たちは「ユダヤ人を恐れて、家の戸に鍵をかけていた」し、イエス様に会うには後ろめたさがある「二重の恐れ」を持っていたでしょう。

そんな彼らに、イエス様は、罪を責め咎めるでもなく、「安心しなさい。あなたがたに平和があるように」とあいさつ以上の、気遣いと、深いゆるしと愛と込めて出会われたのです。

それは弟子たちに、自分の罪深さを教え、しかしそれを赦し、悔い改めと本当の神の愛に目覚めさせる、本当の「平和の挨拶」だったのです。

3.振り返り

私が今日本語を教えたりお世話している外国メンバーの中に、インドネシア人のルーテル教会メンバーがいますが、彼女を岐阜大学そばの安売りのお店に買い出しに連れて行ってあげた帰りに、そばにイスラム教のモスクがあったのを思い出して寄ってみました。インドネシアはイスラム教が多く彼女の同室の女性もイスラム教徒です。彼女が日本で教会に通うように、友人のイスラム教徒は毎日イスラム教式に祈り、時にはモスクにも行くから見せてあげようと思ったからです。その時、夕方のお祈りの時間前で何人かの子供連れの人が外にいました。彼女はインドネシア語ではなく「アッサラーム・サライクム」と世界中のイスラム教徒がするようにアラビア語で挨拶をすると、「ワ・アライクム・アッサラーム」と返事が返ってきました。「あなたの上に平和・平安を」「あなたの上にこそ平和・平安を」という意味です。クリスチャンが少数の国でイスラム教徒が圧倒的多数の国、衝突やテロもあったインドネシアで育った彼らの世代は、互いを尊重し、互いの宗教も尊重し平和に共存することに慣れているようです。

誰もが平和を求めます。しかし、その平和はどうしたら実現すると思っているでしょうか?

毎日TVで流される戦争の状況や、「解放」や「平和」をと訴える侵略者?の言葉を聞いても考えさせられるように、「平和を実現するためには、主義主張の違う人の考えやその人を排除し、自分たちの主義主張がすべてを覆いつくすときに実現する」と思っているのです。それは国と国との戦争でも、人間関係でも同じです。

意見の違う人を「やり込め」て説得して、排除してしまえば「平和」です。しかし、隅に押しやられ、排除された人の苦しみや悲しみが必要条件なのです。「あなたがいなければ、平和なのよ」という事かもしれません。そんな気持ちは、私にもないでしょうか。そんな人間の罪の心が、イエス様を十字架に押しやったのです。「一人の人が死んでユダヤが平和になるならそれもいいかもしれない」と祭司が言ったとあるとおりです。

神の愛、神の平和は何でしょうか?教会でも聖餐式の時に「主の平和があるように」「またあなたとともに」とあいさつをします。これは、「考えの違う人をみんな排除して、自分たちの考えが世界に広まれば平和になるのに」というあいさつではありません。もちろん、神様を、キリストの言葉を世界中の人が知り、神の愛を受け入れてくださればと、願い祈り宣教します。しかし、戦争や暴力ではありません。どうしたら実現するでしょうか?

4.勧め

今日の絵を見ましょう。「あなたがたに平和があるように」と言われ手を広げ差し出すキリストの手です。それは、他者を排除し、脇に押しのけるための手ではありません。その手のひらには、十字架につけられた釘の後があるのです。「私を裏切ったあなたを私は愛し、赦しているよ」という手のひらです。自分に暴力をふるい、死にまで追いやった方は、その相手を糾弾するのではなく、人間の罪のなさることとしてゆるし、新しく生きる道へ招くために差し出されているのです。イエス様を信じないヤコブのためには、「その釘の傷跡にその指を入れてみなさい」とさえ言われました。それも責めるためではなく信じさせるためでした。

私たちは、生き方を振り返り、考え直さねばなりません。本当ならこちらから赦しを請うべきところですが、その前に赦され、身代わりになってくれた方から赦しと招きをいただき、平和の挨拶をしてもらっています。

赦された私たちも、赦しましょう。助けられた私たちも他者を助けましょう。「こんにちは」というたびに、今日のイエス様の言葉と思いを思い出すのもいいかもしれません。きっと人生はそこから変わり始めます。そして、社会も世界も、変わり始めます。

一緒に歩いていきましょう。神様の祝福をお祈りいたします。

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