今週の聖書の言葉 4月3日 四旬節第5主日 (紫)
福 音 書 ヨハネ12: 1~ 8 (新191)
12: 1過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。 2イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。 3そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。 4弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。 5「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」 6彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。 7イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。 8貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
説教「捕われ人を連れ帰るため」
1.導入
今日は四旬節第4主日です。来週は受難週、そして続いて復活祭へとつながっていく日々を、私たちは歩んでいます。そして、私たちの教会は、長らくお世話いただいた奈良部先生から、私徳弘へと牧師が交代し、新しいあゆみを始めるところです。あわただしい中での牧師交代ということですし、牧師にとっても引っ越し荷物の中での生活がまだ落ち着かない中での教会の大切な日々が始まります。よろしくお願いいたします。
今日の聖書は、有名なナルドの香油のお話です。それぞれの福音書にあるお話ですがそれぞれの中で少し違っています。そして、ルカによる福音書ではイエス様の受難に関係があるところではなく別の出来事となっていて、そのようにヨハネも記述しています。そこで、今年はルカによる福音書を読み学ぶ年ですが、ヨハネ福音書から該当箇所が選ばれています。たくさんのことを含んだ出来事で、いろいろな角度から聞き学ぶことができますが、一緒に神様の声を聴いていきましょう。
2.聖書
まず、気になることは登場人物と設定。ヨハネでは、マルタとマリア、そしてその兄弟のラザロが登場します。これだけでいろいろなことを思い出します。
マルタとマリアは、この二人の姉妹のイエス様との出会いやあり方の違いがよく比較される話を思い出します。一生懸命に食事の世話をしてイエス様をもてなすマルタと、イエス様の足元でそのお話を一生懸命に聞いているマリアの違いでした。
そしてラザロ。これは、マルタとマリアの兄弟で、病気になり死んだのですがイエス様によって生き返らせていただいた人です。
そんなイエス様との交流や出会いがあった彼らの家が今日の出来事の舞台です。そして今日もそのベタニアの彼らの家で夕食です。マルタは今日も食事の世話で忙しくしています。「マルタは給仕をしていた」と書かれています。生き返ったのちのラザロは、食卓に一緒についています。「ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた」とあります。
そして、マリアです。前の話では食事の世話はせずに、イエス様のそばに座り話を聞いていてマルタに怒られたのですが、今日は何をしているでしょうか。
以前のように静かにイエス様のお話を聞いているかと思えばそうではありません。「そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。」とあるのです。
それを見たユダは「300デナリオンで売って貧しい人に施すほうが良いのに」と非難するのですが、今の価格では数百万にもなろうかというものです。
それに対して、イエス様は「「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」」と言われ今日の話は終わっていきます。
マリアはかいがいしく食事の世話をする人ではなくてイエス様のお話を熱心に聞く人ですが、今日は、イエス様に香油を塗り足元にひれ伏しています。
3.振り返り
今日はそこから何を学ぶべきでしょうか?
マリアは、忙しく外面的な奉仕をするマルタと違い、聖書の言葉を熱心に聞く人でした。しかし、今日はイエス様に仕え、お返しのような行動をしているのです。
そして、その油を注ぎ塗るという行いは、二つのことを考えさせます。一つは聖書にもあるように、死者への弔いです。しかしもう一つは、油を注がれたもの、つまり王様や、そこから来た救世主キリストということを想起させます。
つまり、マリアの香油の行いは、神様への愛とお返し、そして知ってか知らずか、やがて来る十字架の死への準備、そして油を注ぐその方はキリストであったということへの象徴的な行為でもあったのです。もっといえば、自分の愛する兄弟を市からよみがえらせてくれたイエス様も、同じ死と復活へ向かい進んでいるのです。
さて、振り返らなければなりません。私たちの生き方を。そして、教会での姿を。生活の中で、あわただしく仕事に追われて生きているだけでしょうか。
それも大切ですが、神様のもとにきて座り、み言葉を聞いているでしょうか。それがもっと大切ですが、そこで終わっていないでしょうか。神様の御心を知り、そのために奉仕しているでしょうか?それらの大切さを考えさせられます。
4.勧め
この話は、「過ぎ越しの祭り」に進んでいきます。
過ぎ越しの祭りは、エジプトからの脱出の際に、神様の使いが神様を信じるユダヤ人の家を過ぎ越していって、災いに合わずエジプトの人々だけが災いに会い、その混乱の中、奴隷状態の地から脱出して救われていったことを感謝し記念するためのユダヤ教の一番大切な祭りでした。
そして、そのように救われた彼らはまた罪を犯し数百年後バビロンに捕囚として連れていかれて苦労してきたけれど、赦されて国に帰ることになります。
この二つの出来事が、ユダヤ人たちの神様との大きな出会いでした。
今日の詩篇交読では詩篇の126編から、その二つを読んでいます。このように、苦しみの中から救い出してくれる神様をうたっています。神様は、囚われ人を連れ帰るために、使者を遣わし、いまキリストを遣わしたのです。キリストは、この新しいい「過ぎ越し」の供え物になるために、過ぎ越しの祭りにエルサレムへはいって行かれます。それが来週の出来事です。
これらすべてを網羅していくのがキリストの十字架の出来事。これを通して、私たちが救われ、解放されていくのです。それを確かなものにするために、今日のマリアの行いを見つめましょう。私たち一人一人への神様の計画は何でしょうか?私たちの教会への神様の計画はどんなことでしょうか?
それを一緒に聞き、受け止め、そのために奉仕し神様にお返ししていく生活を一緒に始めましょう。これからよろしくお願いします。神様の祝福がありますように。
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