2020年11月8日日曜日

週報 礼拝メッセージ 20201108

 

今週の聖書の言葉 

福音書 マタイ 25: 113 (49)

「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。 愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。 賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。 ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。 そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。 愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』 賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』 愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。 その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。 しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」

 

説教(解説)「油断? 加油!」 徳弘浩隆師

 

1.  油断大敵

今日の聖書個所を読むと、私が必ず思い出す言葉は、この「油断大敵」という言葉です。「油を断つ、つまり、絶やすことは大敵。いつも気をつけていないといけない」と思います。しかし、この「油断大敵」という言葉の由来は、少しそのイメージとは違うようです。調べるとこう出てくるからです。

「油断大敵」は、一説には原始仏教の経典にある逸話が語源と言われています。インドの王様が家臣に対し「油を入れた鉢を持って街の中を歩くよう」命じ、油が一滴でも鉢からこぼれたときには処刑すると告げた。鉢いっぱいに入れた油が一滴でもこぼれないように歩くのは極めて難しいことであり、このことが「注意を怠ると命取りになる」の意味の「油断大敵」の語源となったと言われています。

「いつも注意をしていないといけない」という意味では似ていますが、これはイエス様の聖書のたとえ話とは少し設定が違うように思います。

似たことわざでは「泥棒を見て縄ない」が近いのかもしれません。しかし、今の若い人に「縄ない」といってもわかってもらえません。

私が思いついた分かりやすいことわざはこうです。「出かける時に充電しなきゃと気づく」。言葉がまだ推敲が必要ですがこれなら、携帯電話やスマホが必須になった今の世界、だれでも失敗した経験があり、わかりやすいのではないでしょうか。「急いで出かける時に限ってスマホを見ると充電があと少しで切れそう。でも充電するには時間がかかるし、今すぐ出かけないと間に合わないし」という失敗や反省、ジレンマを誰でも経験しているのではないかと思うからです。

今日の聖書の中では、イエス様はこのたとえ話を通して、何を教えておられるのでしょうか?

2.  聖書を学びましょう

これは、「天の国のたとえ」として語られています。天の国はどのようであるか、神様が愛で支配される社会はどのようであるかとたとえ話で説明していますが、明らかに「その日」の到来に対する備えとしてマタイ福音書は示していると考えられます。

「その日」とは、「イエスキリストが約束された通りもう一度来られる日」「再臨の日」「世の終わりの日」ということになります。

11月のこの時期に終わりの日を考えるのは、「急すぎる」「まだ気が早い」と思われるかもしれません。しかし、キリスト教会のカレンダーでは一般の年末よりもひと月ほど早く「年末」が来ます。毎年思うことですが、「ああ、もうそんな季節か!」と驚かされ、気ぜわしくさせられます。教会のこよみでは、今年は、再来週が今年の最後の日となるからです。

さて婚礼の日のたとえ話ですから、ユダヤの当時のことを学びましょう。研究者の説明によれば、婚礼は通常、夜開かれたそうです。客は花嫁の家で接待を受けながら花婿が来るのを花嫁と一緒に待ちます。花婿は花嫁を迎えに来るのであって、彼が到着するとともしびを明るくともして歓迎します。花婿と花嫁は客と一緒に祝いの行列を作って花婿の父の家に行き、そこで本格的な祝宴となるそうです。たとえに登場するおとめたちは花嫁ではありません。彼らは花婿が来る時や、婚宴の広間や行列の道中を明るく照らすために、たいまつと油をもって花嫁の家で待っている役割がある人たちだそうです。

さて問題はこうでした。花婿の到着が遅れているので、おとめたちは眠ってしまいました。真夜中に花婿が来て、迎えに出なさいと言われ行きましたが、10人中5人のおとめはともしびをつけようとしてももう油が切れていました。分けてもらおうとしても自分の分で精いっぱいなので分けてもらえません。たいまつは15分ほどしか燃えず、予備の油壷に油を準備していなければなくなってしまうのです。

眠ったのが問題ではありません。きちんと十分な量を準備していなかったのが問題で、彼らは婚礼に入れてもらえませんでした。

3.  振り返り 

私たちの人生も振り返る必要があります。

まだまだ年末まで時間があると思っていても、考えてみれば教会のカレンダーは一か月ほど早いので、うっかりしているともう目の前です。そのうち準備すればよいと思っていたすべての事柄は、手遅れになるかもしれません。

これは、年末の準備や、クリスマスへの準備だけではありません。私たちの人生そのものの「終わりの日」への準備です。世の終わりは、自分の人生の終わりは、あるいは、人生の中で神様と劇的に出会う日が突然来るかもしれません。

日曜日は心も服装も整えて、クリスチャンとして教会へ行くかもしれません。しかし、私たちの都合に合わせてではなく、神様の時はいつ来るかもしれません。いわば、日曜日に服装と心を整えて教会に「神様に会いに行く」のではなく、心が整えられていない、心が荒れ放題のウイークデイの自宅に神様の方からやってこられる、という具合かもしれません。「ちょっと待ってください。急に来られても困ります。前もって連絡入れてくれればいいのに」と急な来客で思うことがあります。しかし、世の終わりや人生の終わりは、そんなに都合よく、あらかじめ連絡をしてくれるとは限りません。

4、勧め 

今日は、急き立てられるようなお話だったかもしれません。気を抜かずに頑張らないといけないと、思わされたかもしれません。しかし、心配しすぎてもいけません。神様を信じて神様にお任せする生活を、いつもから心がけていれば、それだけで安心です。「頑張る」という言葉は、中国語では「加油」というそうですね。まさに、油が切れているときに、油を加えることになります。しかし、頑張って油を加えるのではなくて、いつも、神さと一緒にいれば、慌てることはありません。神様に信頼し、人を愛する生き方。それはいつも充電していれば、急な外出でも、携帯電話が充電不足ということにならないのと同じです。つながっているから、いつでも機能し、使えます。私たちはいつも、何をしているときも、充電器につながっていますか?つまり、神様とつながっているでしょうか?それがあれば、安心です。神様の祝福がありますように。


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