2020年11月1日日曜日

週報 礼拝メッセージ 20201101



 

聖書の学び 今週の聖書の言葉

福音書 マタイ 23: 1~12 (新45)

1それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。 2「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。 3だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。 4彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。 5そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。 6宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、 7また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。 8だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。 9また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。 10『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。 11あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。 12だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。

 

説教(解説) 「先生と呼ばれるほどの‥」徳弘浩隆師


1. 先生と呼ばれるほどの

今日の聖書を読んでまず思い出した言葉は、この言葉でした。今日の説教題にもなっていますが、「先生と呼ばれるほどの」です。そして、我を振り返って苦笑いしました。ご存知の通り、この言葉の続きは「馬鹿じゃなし」となっていきます。

「先生と呼ばれて、調子に乗っていてはいけない」という意味の「先生と呼ばれて得意になっている人を皮肉る川柳」ということのようですね。

キリスト教会の集まりの中にはいろいろな「先生」が多いようですね。学校や幼稚園の先生、お医者さんも多いかもしれません。「せんせい!」と呼びかけると数人が振り返ったなんている経験も、私にも何度もあります。呼びかける側でも、返事をしてしまう側でもです。

この聖書の言葉を大切にして、牧師同士でも「先生」と呼び合うのをやめようという動きも時折ありますが、これもどうもしっくりきません。社会福祉法人の方々との会議で、「うちでは、さん付けでやってますから」といわれて始めましたが、つい牧師や医師に対しては互いに「先生」をつけてしまって、なかなかうまくいきません。

どうしたらよいのでしょうか?今日の聖書は何を伝えているのでしょうか?ただ、呼び方だけの問題なのでしょうか?

2. 聖書を学びましょう

今日の聖書のイエス様の言葉は、イエス様の当時のユダヤ教の指導者たちのことを指摘して、話をしておられます。そして、こう続けます。「彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。」なかなか厳しい指摘です。モーセの座についているというのは、旧約聖書のモーセの書、つまり「神様との契約や掟などを大切にして覚え、教えている」ということでしょう。だから、彼らが言うことは聞きなさいというのです。しかし、彼らを見倣うな、彼らは言うだけで実行していない、と。イエス様の厳しい指摘は続きます。

たくさんの掟を教え人々には重荷をたくさん載せているが、その人に指一本貸そうとしない。成句の入った小箱を大きくしたり、衣の房を大きくしたりもする、と続きます。

聖句の入った小箱を大きくするというのは、申命記6章4節から9節にある言葉に従って、朝夕の祈りの時に、この聖書の言葉が書かれたものを小箱(テフィリン)に入れて、心臓に近い左腕や額に巻き付けいていたのですが、それを常時つけている者たちもいたことを指しているのです。

このようにして、宴会や会堂では上座を好み、先生と呼ばれることを好むというのです。

このテフィリンは今でも正統派の熱心なユダヤ教徒は使っています。写真や映画などで見たことがある方も多いかもしれません。しかし、このような掟を守り、神の言葉を大切にすることをイエス様が批判しているわけではありません。問題は、これをわざと仰々しくし、大きくしたり、大げさにしたりすることです。それは、自分の権威を高め、評価を高めるために行っているむなしい努力にすぎません。

そして、これらの指摘の後に、イエス様が言われたこと、それは、「あなた方の教師はキリスト一人である」「偉い人は仕える者になりなさい」という勧めにつながっていきます。

神の言葉を大切にすること、そしてそれを謙虚に実行していくこと、また、重荷を背負って苦しむ人がいたら手を貸してあげること、これが大切なのです。つまり、今日のイエス様のメッセージは、「先生という呼び方を廃止せよ」ということではなくて、「そう呼ばれることを好んで、偉いと思って高ぶってしまい、本当の神様の言葉を実行していない姿」への警告であり、「偉い人こそ、仕えるものになりなさい」という愛の生き方を勧めておられるということです。そして、その通りに、イエス様ご自身が、生きていかれました。そして、人々の罪を背負って十字架で代わりに死んでいかれるところまで、謙虚で自分をすてていかれたのでした。

3. 振り返り 

私たちの毎日の生活はどうでしょうか? 神様を大切にして生きているでしょうか?そして、それだけではなくて、人を大切にしているでしょうか?

誰でも、人から評価してもらうのはうれしいことです。努力が報われたと、今までの苦労が吹き飛ぶような気持になる物です。それそのものは罪ではないでしょう。

しかし、その評価だけを求め、そこに安住するときに、私たちは間違えていくのです。評価されて当たり前、大切にしてもらって当たり前と思う時に、人の苦しみが見えなくなっていくのです。

最近、新型コロナのために、会議もインターネットで行われることが多くなりました。私もだいぶ慣れましたし、場合によっては効率がよく、時間もお金も節約になります。しかしここで、ちょっとしたことが問題になりました。そして、この会議ソフトを提供している会社はこれに対応しました。どんなことかというと、「会議室なら上座があって上司が奥の正面にいるのに、インターネットの会議だと参加者の顔が並んで表示されるけれどそこには上座がなくて自分の方が上司よりも上に表示されていて、申し訳ない」というのです。そこで、ソフトメイカーは、上司を上の方に表示して固定させる機能をつけました。笑い話のようですが、特に日本社会では大切なことなのかもしれません。そんな中にあっても、神の愛を生きていけるようになったら、私たちの人生、社会は、そして世界は、少しずつ変わっていくのではないでしょうか?

4、勧め 

先生と呼び呼ばれる時に、服装を選ぶときに、席を選ぶときに、いつも神の愛と人の姿を見つめていきましょう。そこから愛と平和の世界が始まりますように。神様の祝福がありますように。 


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