2020年10月25日日曜日

週報 礼拝メッセージ 20201025







聖書の学び 今週の聖書の言葉
福音書  ヨハネ 8:31~36 (新182)
31イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。 32あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」 33すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」 34イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。 35奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。 36だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。 

説教(解説) 「自由になる?」    徳弘浩隆師
1. 自由だと思っていたけれど
今日の聖書は、イエス様が自分を信じたユダヤ人たちに「真理はあなたたちを自由にする」といわれています。しかしそれを聞いていたユダヤ人たちは、驚きます。そしてこう答えました。「私たちは今まで誰かの奴隷になったことはありません」と。
私たちも、別に誰かの奴隷でもなく、自由に生きているつもりでも、急に「あなたを自由にしてあげる」といわれたら驚くかもしれませんね。
今日の聖書の言葉はどういう意味で理解すればよいのでしょうか?
今日は、実は「宗教改革記念主日」でもあります。宗教改革記念主日というと、世界史の授業で昔習った「マルティン・ルターの宗教改革」という言葉を思い出すかもしれません。1517年の10月31日に、ドイツのマルティン・ルターという人が当時のカトリック教会に抗議をして、新しくプロテスタント教会が生まれていくことになった日なのです。今日はこの紙面では、そのことも一緒に簡単に学び、考えていきましょう。

2. 聖書を学びましょう
今日の聖書のイエス様の言葉は、次のように続きます。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」と。私たちは、気が付かないでいるかもしれないけれども、自分ではどうしようもない心の奥深くの「何か」に支配されて生きている、というのです。そしてそれは、「正しく生きよう」とする心の声だけではなくて、「このくらい大丈夫だろう。たいした悪い事じゃないし」と、ささやく悪魔の声のようなものも心の奥深くに時々持っていることを思い出させます。それが「奴隷」の状態だというのです。
そういう意味で、私たちは本当に自由ではないのです。具体的に犯罪を犯してはいないにしても、あるいはそれが見つかって捕まってしまうような経験がなくても、私たちの心にある悪の思い、つまり罪の思いが私たちを駆り立てるなら、「罪人(つみびと)」とキリスト教では考えます。
それが原因で、人は人を裏切ったり、傷つけたりすることがあります。また、そんな自分をゆるせなくて、悔やんだりすることもあります。そしてそれは、いさかいや喧嘩、果てには殺し合いや戦争にまで発展します。その心の中の小さな種は同じなのです。
そういう意味では、実際に悪いことをしてしまったことがなくても、心の中の思いがあれば、神様の目から見たら同じようなもの、皆不完全な罪人(つみびと)というわけです。
そんな思いから人間は、時に赦しを請うたり、償いをしたりもします。しかし、人間の関係では相手がいますからそれができても、神様との関係ではそれは簡単にはできません。ですから、色々な宗教でも、ゆるしてもらうために、みそぎや償いの儀式がなされるようになります。ユダヤ教もそうでした。そしてそれは、本来の教えから離れ、教えそのもの、宗教的な規定そのものに形式的に人々は縛られるようになっていました。
そんな人たちにイエス様はこういわれました。「私の言葉にとどまるなら、私の弟子である。そうすれば真理を知ることができるようになり、自由にされる」と。イエス様の教えを聞いて、それを信じ、イエス様を離れず、イエス様の言葉に引き続きとどまり続けるなら、それらからも自由にされるというのです。
今までのような、罪に支配される人生ではなく、また、宗教にがんじがらめにされる生活ではなくて、自由に生きることができるようになるといわれたのです。それは、自分の心の奥底の罪の声にさいなまれる心から、神様の裁きを怖がる心からも自由にされるのです。条件は一つ、イエス様を信じてそこにとどまり続けることでした。

3. 振り返り 
私たちは、何を信じ、何を大切にして生きているでしょうか?
宗教改革記念日のことを考えましょう。16世紀のキリスト教会は、混乱し、誤った方向へ傾いていました。キリストを信じればそれでゆるされ、自由にされるはずなのに、教会の教えが一般民衆を罪と地獄の裁きにおびえさせ、そこから救い出すために、教会の聖人たちの功績にあやかることを勧めました。それを分けていただくために、贖宥券(しょくゆうけん)、俗にいう免罪符を売り出すことになったのです。そこには教会の権力や財産の問題も絡んでいました。聖書に書いてある言葉以外に、時にはそれ以上に、教会の指導者たちの、中でもその一番上にいる教皇の権力が大きすぎることになってしまっていました。そこに、ドイツの修道士であり、神学者であったマルティン・ルターが疑問を呈し、議論を呼びかけました。ところが当時の指導者たちの逆鱗に触れ、破門されてしまいます。当時のキリスト教国家での「破門」は命の保証すらなくなることでした。ルターは公の場で尋問されても、命を懸けて、誤った教えに反対し、それを取り下げませんでした。イエス様が教え、命を捨ててまで教えてくださった神様の言葉を捻じ曲げてしまった教理に従うことができなかったからです。結果、新たにルター派の教会、ルーテル教会が生まれることになりました。世界で始めのプロテスタントの教会です。その流れを汲んでいるのが、私たちのルーテル教会ということになります。
自由に生きていると思っていたけれど、罪を自覚させ、そこから救い出されるために、イエス様を信じてついていくことを示し、それで解決されるはずでした。
しかし、そのキリスト教の中で、罪から赦され解放されるためにと、イエス様にせっかくとってもらった主により以上に大きな重荷を負わせることになってしまっていたのです。
それに対して、イエス様の教えに立ち戻るように説いたのが、ルターでした。もうキリストによりゆるされ自由にされているのに、というのです。

4、勧め 
私たちも、心を澄ませて見つめてみましょう。耳を澄ませて聞いてみましょう。心の奥底で、罪の心がささやくことがあります。たくさんの問題に苦しみ、生きていくのがつらくなる時もあります。
一生懸命に修行をしたり、財産をはたいて献金してもそれは無意味です。ただ一つ、「イエス様を救い主として受け入れること」それだけです。「そんな簡単なこと?」と思うかもしれません。しかし、苦しいことやいろいろなものにさいなまれる時にも、イエス様にとどまっている事、つまり、イエス様を信じて安心して生きていけることは、意外と難しいことです。つい、人の助けや、迷信や、お金に頼ることがあるかもしれないからです。「私の言葉にとどまるならば」とイエス様は言われました。そうすれば、すべての悩みや苦しみから「自由にされる」と約束されました。
今までの自分の自信やその反対の不安など、すべてを捨ててしまって、神様にお任せするとき、道が開けます。本当に自由にされます。そんな人生を一緒に生きていきませんか?教会はいつもあなたをお待ちしています。一緒に祈りましょう。

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