2020年10月4日日曜日

週報・説経メッセージ 20201004





 


聖書の学び 今週の聖書の言葉

福音書  マタイ 21:33~46 (新42) より

イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。 この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」


説教(解説)「板張りとタイル張りの違い」徳弘浩隆師

1. ぶどう畑のたとえの3回目ですね…

毎週の聖書の朗読は今年は、マタイによる福音書ですが、個々の所、イエス様の「ブドウ園のたとえ話」が続いています。身近なブドウ園にまつわるたとえ話で、当時の人々に神様の言葉をわかりやすく伝えていたのです。土地を整備して、ぶどう畑を作り、農夫たちに任せて、ようやく収穫となった時に、事件は起こりました。どんな事件でしょうか?

最近の日本のニュースでもこんなことがありました。大切に育てていた牛が牛舎から盗まれたり、盗めないとあきらめたらしく解体されて一部が盗み取られていたりというニュースに驚いたことがありましたね。昨日の新聞では、アワビなど高価な魚介類の密漁も後を絶たずに困っているとのことでした。中には怪しまれないように、「レジャーの家族連れ」を装って子供連れで来ているプロ集団もあるそうですね。

さて今日の聖書の中のイエス様のブドウ園のたとえ話、その事件、そしてその心を読んでいきましょう。

2. 聖書を学びましょう

ブドウ園の主人が、収穫の時に収穫を受け取るときに僕たちを農夫たちの所に送りましたが、捕らえられ袋叩きで殺したり石で撃ち殺したりしました。

次は、もっと多くの僕を送ったのですがやはりだめで、同じ目に合わせられました。

最後は、「私の息子なら敬ってくれるだろう」と、自分の息子を送ったところ、その年の収穫だけではなくて、「跡取りだから、これを殺して相続財産全部を奪い取ろう」と捕まえて、ブドウ園の外に放り出して殺してしまったというのです。

これらは、神さまが世界を作り、人間を造られたのに、人々は神を忘れ、神からの預言者を次々に迫害したことがたとえられています。そして、最後には、神の独り子イエスキリストを送ったのに、敬いもせず受け入れられなかったことを表しています。そして、もっと言うと、これから起こる出来事、街の外で十字架にかけて殺されていくことも表しています。

弟子たちに問うと「悪人どもをひどい目に合わせて殺し、ほかの人たちに農園を任せるようになるでしょう」というのですが、さてどうでしょう。これは私たちの常識的な反応かもしれません。「勧善懲悪」で悪いものは懲らしめ、よいものが報いを受けるべき、というのがこの世の常識だからです。

しかしイエス様の答えは違いました。そこが、キリスト教の神様の不思議なところです。

イエス様は「家を建てる者の捨てた石が、隅の親石になった。主がなさったことで不思議に見える」という聖書の個所を引用し、説明を続けます。神様は、復讐をして懲らしめるのではなくて、神様の計画をほかの民に与えられること、そして「その石の上に落ちる者は砕かれ、この石が誰かの上に落ちればその人は押しつぶされてしまう」説明をされたのです。

神さまの計画は不思議で、復讐と懲らしめではなくて、神の子は捨てられること、しかしそれは土台の石となり、新しい神の国の家を支えるものになることを示しています。そしてこの石は、人を砕き、人を押しつぶすほどの力があることを示しています。

3. 振り返り 

ブラジルにいたころと帰国してからの違いはいくつかありますが、その中の一つは家の「床」です。ブラジルは家じゅうコンクリートにタイル張りでした。そんな家が多いです。時には水をかけて流し、拭けばきれいになります。暑い時でも涼しく心地よいです。

そんな固い床はしっかりとしてよいのですが、物を落としたら、落としたものが壊れます。それに対して、日本のような畳や板の床は柔らかくて傷みやすいのですが、物を落としてもそれは壊れにくいのです。

神さまは、私たち(柔らかい畳や板の間)の上から踏みつけて、力づくで改心させ、服従させる方ではありませんでした。むしろ、私たちが踏みつける床になってくださったのかもしれません。傷つき、痛み、捨てられることになってもです。

しかし、その床は固い床でもあります。その上に落ちたものは、粉々に壊れるかもしれません。捨てたつもりで、足蹴にしているつもりでも、その床の上に落ちた私たちの心は、粉々に砕かれ、悔い改めさせられるようになります。

今日のイエス様のたとえ話を聞いて、捨てられた石の話を聞いて、私はそれを連想し、かみしめました。

ブラジルのコンクリートでタイル張りの床は傷まず、きれいで、便利でしたけれど、お皿やコップを落としたらすぐに割れていくつもダメにしてしまったからです。そして、日本の畳や床の間でそうではないことに驚き、安心したものの、逆に畳や板の間が汚れ、ニスははげ、傷み、すり減っていくのを見て、どちらも一長一短があるなと思ったものです。

力づくではなく、捨てられても、愛をもって人々を逆に砕いていく、そんな不思議な方法が罪びとの私たちを改心させる、生き方を改めさせる方法だったのです。それが、「不思議に見える」敗北にさえ見える、イエス様の十字架の道だったのです。

そして、私たちの心も考えさせられます。

固くしっかりとした心は傷つきにくいけれども、人を傷つけることが多くあります。

柔らかく柔軟でやさしければ、人の言葉や難しい状況に傷つきやすくなることもあります。

私たちの心は、イエスキリストという世界と人生の基礎の石に支えられています。そのおかげで柱や屋根があり、風雨から守られています。神様はそういう存在だというのです。しかし、その基礎の石はしっかりとしているので、ぶつかったり、その上に落ちてしまうと物は粉々に砕け、壊れてしまいます。私たちも、神様のおかげ、神様の恵みを忘れ、「ぞんざい」にし始める時に、困難や苦しいことにぶつかります。そしてそれは、苦しめることそのものが目的ではなくて、それを通して、傲慢であった自分が「くだかれ」、謙虚で優しい愛を取り戻すためなのです。

4、勧め 

新しい一週間が始まります。家で過ごすときに、スーパーや会社で過ごすときに、足元を見つめる生活をしてはどうでしょう? コンクリートにタイル、ピータイル、板張りの床、そして畳張り、それを貸しで感じながら、神様と私たちのことを思い出しましょう。

神さまと一緒に、新しい生き方をして行きましょう。神様の祝福がありますように。 


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