2020年10月11日日曜日

週報・説教メッセージ 20201011





 


聖書の学び 今週の聖書の言葉


福音書  マタイ 22: 1~14 (新42)より

イエスは、また、たとえを用いて語られた。「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。 こでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』 しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。 こで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。 そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。 だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』 そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。 王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、 王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」


説教(解説)「見かけた者は誰でも」徳弘浩隆師


1. 今日は結婚式のたとえです…

「天の国はこういうところである」というお話で、先週まではブドウ畑に関するたとえ話が続きましたが、今日は結婚式のたとえになりました。

本当にイエス様はいろんな身近なたとえ話をして、むつかしいことをわかりやすく説明されたんだなと思わされます。結婚式、自分でするとき、呼ばれたとき、どんな気持ちでしたか?

実は岐阜大垣に来て、私たち夫婦と実は全く同じ年の同じ日に、ルーテル教会で結婚式を挙げたご夫妻に初めて会いました。私たちは東京の武蔵野教会、そしてもう一組はこの大垣教会です。びっくりしていろいろとあの日のことを思い出しました。台風で大変だった翌日。誰を呼ぼうか、だれにスピーチを頼もうか。あの人にも声かけないと失礼かな…と、いろいろと思い出します。

逆に、呼ばれた側としてはどうですか? 誰が呼ばれたんだろう?何を着ていこう?いくらお祝いしよう?これもまたいろいろと考えるものですね。この結婚式と、天の国は、どういう風に似ているのでしょうか?イエス様のたとえの意味を考えていきましょう。

2. 聖書を学びましょう

準備が整ったのに、せっかく招待していた人たちは誰も来てくれません。家来を送って呼んでも来ません。「食事の準備も万端ですから是非どうぞ」、といっても来ません。なんということでしょう。たとえでは、これは、神様が育て準備してきたユダヤ教の偉い人々はイエス様の教えを素直に聞くことができず、従ってこないことを表しています。

ついに王様は怒ってしまって「町の大通りに行って見かけた者は誰でも連れてきなさい」ということになりました。そしてたくさんの人が呼ばれてきて、お客さんでいっぱいになりました。それが天国でしょうか?確かにそうです。誰でも彼でも呼ばれてきました。聖書にはこうも書いています。「善人も悪人も」と。天の国は、そして教会は、「いろいろな準備ができている立派な人たちの集まり」ではなくて、「善人も悪人も呼び集めていただいた所」なのだということを考えなければなりません。

3. 振り返り 

私たちはどうでしょうか?「ずっと前から聖書に関心があって、真理を知りたかった」とか、「品行方正で正しい人だから、教会に来る資格がある」とか、「いろんな宗教や教会を訪ね歩いた末に、この教会が一番良いと思って選んだ」という人は少ないのではないでしょうか?逆に、「教会なんて敷居が高くて私なんかとても入れません」とか、「勇気を出してきているけれど、みんな立派な人、信仰も立派な方ばかりで私なんか居場所がない」と思うこともあるかもしれません。私もそういう経験があります。

しかし、今日の聖書はそんな私たちに、「安心していいよ」といってくれています。「善人も悪人も誰でも彼でも、条件なしに読んだんだから」ということですから。

でも、それで安心して座り込んでいていいでしょうか?聖書の最後のところを読まねばなりません。

一人だけ婚礼の礼服を着ていない人がいて、それを婚礼の主催者の王様は見つけます。まだ怒っていません。「友よ」と話しかけるからです。「どうして礼服を着ないでここに入ってきたのか?」と聞きました。

それに対して、その男は黙っているままでした。そこで、この王様は怒ってしまいました。「この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」というのです。

なぜ急にこんな風に怒るのかと、不思議になるかもしれません。しかし、その心はこうです。自分の努力や準備はないのに誰でも天国に招かれています。しかし、入ってくるときに、用意してくれた礼服に着替えなければならなかったようなのです。

王様は神様のこと、その子というのはイエス様のことでしょう。自分の努力の結果ではなく招かれた天の国に入るには、着替えをしなければならなかったようです。何を着ればよかったのでしょうか?

今、大垣南集会でヨハネの黙示録を読んでいますが、ちょうど先週一緒に読んで味わったところを思い出します。「救われた人々は白い衣を着ていた」と書かれています。そして、こうありました。

すると、長老の一人がわたしに問いかけた。「この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。」そこで、わたしが、「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老はまた、わたしに言った。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」

つまり、イエスキリストを受け入れるだけで入れてくれる、そしてイエスキリストと聖書でよくたとえられる子羊の十字架の血で洗われた白い衣を着ていることが、最低の条件なのです。

4、勧め 

天の国は死後の世界だけではありません。今生きている間に、神様が愛で支配してくださる生き方、教会、平和な世界、そんなものも表しています。入るには条件はありません。ただ、イエス様を知り、受け入れること、それが礼服に着替えるということなのです。

神さまと一緒に、新しい生き方をして行きましょう。 


0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。