2022年5月29日日曜日

説教メッセージ 20220529

今週の聖書の言葉 05月29日 

ルカ24:44~53 (新161) より

50イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。 51そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。 52彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、 53絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。


使徒言行録1: 1~11(新213) より

イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。 10イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、 11言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」


説教「天を見て、右見て左見て…」 徳弘牧師

1.横断歩道は右見て左見て…世界共通?

「横断歩道では、みぎみて、ひだりみて」と、小学校のころから教わりましたが、ブラジルでは反対。左を見てから右を見る必要があります。自動車が左側通行ではなくて右側な通行なので、道を渡るときに自分の側で接近してくるのは左側からという事になるからです。そこに車が来ていないことを確認してから、向こうの車線で接近してくる右側を見るという順序になります。これに慣れていると、日本でも同じよう左を見てから右を見るという事をしてしまって、「あ、しまった」と思う事があります。「まず右を見なきゃ。どうしていつまでも左を見てるの?」と神様から注意されそうに感じ、一人苦笑いをします。

今日の聖書の使徒言行録では、「なぜ天を見上げて立っているのか。」と天使らしき人に弟子たちは聞かれました。今日は、イエス様の昇天主日でもあります。今日の聖書のメッセージを聞いていきましょう。

2.聖書

なぜ弟子たちは天を見上げて立っていたのでしょうか。それは、聖書で読んだ通り、イエス・キリストが弟子たちが見ている前で、天に上られたからです。

ところで、クリスマスの前、待降節の最初の祈りの言葉を覚えているでしょうか?それはこうでした。「主イエス・キリスト。力を奮って来てください。」それは、イザヤ書の祈りの言葉にも通じるものがあります。「どうか、天を裂いて降ってください。」その祈りの声に応えるかのように、長く待った末に神の子が下ってこられたのがイエス・キリストです。そして、地上でのお働きを終えて、天に昇って行かれたというのが今日の出来事です。

弟子たちは、天を仰ぎ、あっけにとられ、神々しさを畏れて見るのと同時に、きっと、取り残されてどうしたらよいのかという茫然自失の気持ちもあったに違いありません。そんな彼らに、天使は声をかけたのです。「なぜ、天を見上げて立っているのか」と。それは、視線を天に向け、そのままではなくて、地にも向けさせる必要があったからです。「いつまでも見上げたままではいけない。同じありさまでまたおいでになる。」そしてそれは、「それまでにやることがないか?」という風に私には聞こえてきます。

横断歩道でもそうです。右を見て左を見て。そのあとが大切です。いつまでも左右を見てばかりでもいけません。安全を確認したら、道を横切って渡るからこそ意味があるのです。それでこそ、目的地に近づけるのです。

3.振り返り

先週は時間をいただいて、実家に戻ってきました。急遽入院手術することになった父の世話のためです。母も老人ホームに入り、兄はおりますが東京で忙しくテキパキと世話をするのはむつかしく、私しかいません。時間をいただいてありがとうございました。父は、90歳になり、だいぶん耳や、理解力や、記憶力が衰えました。荷物の準備をして、病院へ行き、6階の病棟の入り口で手を振ってしばしの別れでした。

実家に帰って、気になっていたところを掃除をしたりワックスがけをしたり、そして夕食をしながらあることに気が付きました。「実家に一人で泊って一人で夕食をしたのは、人生初めてだ!」と。まだ両親は生きていますが、こうして、実家にポツンと一人でいると、いずれこんな風に別れていくんだろうなぁ、としみじみしました。他の日は忙しくて外食をしましたが、父がよくいくお店でよく食べている、九州の焼うどんを一人で食べてみました。夜は、庭に出て空を見上げて驚きました。こんなに星がきれいで大きく見えるのは久しぶりだなと。高校生の頃、受験勉強をしながらよく外に出て星を見上げたことを思い出します。そして考えました。「それにしても、TVをつけると嫌なニュースばかり。悪いニュースばかりだなぁ。何か、いいニュースはないのか?」と独り言を言いながら気が付きました。「いいニュースはあるよ。Good Newsは神様の福音じゃないか。」と自分に言い聞かせて、我に戻りました。

家族が病気で大変な中、忙しく段取りをして、一人走り回って。そして、一人ぼっちの家の中や、外で夜空を見上げながら、ぼんやりしていましたが、急に引き戻された感じでした。

福音とは、ギリシャ語でエヴァンゲリオン、英語にすればGood News.むつかしく悲しいことが多いニュースばかり見せられるし、自分の人生も今ちょっとした大変な峠に差し掛からおうとしている。けれど、Bad Newsばかりではない。Good Newsが聖書に書かれている。それを伝える仕事を自分はしているんじゃないか、と、我に帰らされたのです。

4.勧め

空を見上げて呆然自失の弟子たちも、きっとそうだったのかなと思いました。そんなときに、天使に声をかけられて我に戻ります。彼らがすることは、「証人になる」ことです。神様の救いの計画や出来事、そしてイエス・キリストの語られたこと、されたことを、多くの人に伝え、助けていくこと、それが彼らの弟子としての使命だったのです。弟子たちと別れる前にイエスキリストが言われた言葉はこうでした。「地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

私たちも、とらえられない出来事や、受け入れられないむつかしさに直面することがあります。茫然とすることがあるでしょう。悲しいことや、赦せないことに心が支配されることもあるでしょう。その時、今日の言葉を思い起こしましょう。私たちも、我に戻り、福音を思い出し、キリスト者として生きていきましょう。

神様を思って、天を、上を見上げることも必要ですが、私たちの足元、それも左右前後を見て、神様の助けを必要としている人に出会っていきましょう。

神様の祝福をお祈りします。 

 

 

ニュースを見て気になるキリスト教ワンポイント講座

そういえば、ロシア正教ってどんなキリスト教?

<ロシア正教と、街の名前の雑学編> 

私たちは、こどもに名前を付けるときに、祈りと願いの気持ちを込めて名前を付けるでしょう。先週の高蔵寺教会の教会学校では、そんなことを考えました。アダムとエバの名前の意味を聖書から学びました。そして、自分の名前は、どんな意味があって、どんな祈りがあったのか、そんなことを紹介しあいました。ご両親のいろいろな願いが込められたそれぞれの名前を知ることができました。

そして、人は街や土地の名前にも祈りや意味を込めます。聖書でもそんなエピソード付きの土地の名前がいくつも出てきます。

最近考えさせられるのは、ロシアの首都に次ぐ第二の都市、ペテロブルグです。正式にはサンクト・ペテルブルグですが、「聖ペテロの街」という意味ですね。この街を作らせたピョートル1世が自分の名前と同じ聖人の名前、ペトロの名をつけさせたのが理由とのことです。そう、ピョートルもペトロのことだったのですね。そして、その名を付けた街の名前が、当初はオランド風にサンクト・ピーテルブール と呼ばれていましたが、後にドイツ語風にサンクト・ペテルブルクと呼ばれるようになったそうです。しかし、第一次大戦でロシアがドイツと交戦状態に入ると、ロシア語風の読み方、ペテログラードに変えられます。ところが、ロシア革命によって、ソビエト連邦になると、建国の父、ウラジミール・レーニンの名にちなんで、ペトロの名を捨てさせてレーニングラードと変えられました。しかしまた歴史は流れて、ソ連崩壊ののち、住民投票により選ばれた名前は、慣れ親しんだサンクト・ペテルブルグに戻ったというのです。

歴史の流れに翻弄されて、街の名前は数度変わり、また戻り、という歴史を持っているのです。大変興味深いですね。

そういえば、先回出てきましたが、当初キリスト教を迫害していたローマ帝国でしたが、コンスタンティヌス帝が313年に公認したということでした。そして、ローマ帝国の東の主要都市はコンスタンチノープルと名付けられていきます。その後、トルコになってイスタンブールとなりました。トルコはイスラム教の国。そしてNATO加盟国家ですが、最近フィンランドとスエーデンのNATO加盟について異議を唱えている国ですね。

ちなみに、これらフィンランドとスエーデンはキリスト教の国で、宗教改革を早くに受け入れ、それぞれルーテル教会が国教でした。

今の祈りは、この戦争が早く集結し、互いが互いを尊重しあって共存できる世界になることです。間違っても、ウラジミール・レーニンの名をとってレーニングラードができたように、ウラジミール・プーチン氏の名前がつけられた街ができないようにと祈るばかりです。(続く)


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