2022年5月21日土曜日

説教メッセージ 20220522

今週の聖書の言葉

05月22日 ヨハネ14:23~29 (新197)

14: 23イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。 24わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。

25わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。 26しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。 27わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。 28『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。 29事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。


説教「去ってゆかれるキリストの言葉」 徳弘牧師

1.最後に言っておきたいこと…

「最後に言っておきたいこと」は私たちに誰にもあるでしょう。それが突然やってきても、急いでメモを残したりもします。悲しい気の毒な話ですが、飛行機や船の事故で、もう十数分しか持たないとわかったときに、紙切れや携帯電話でメッセージを残して大切な人に送るという事も時折報じられてきました。

今回の観光船の事故では「船が沈みそうだ。今までありがとう」と奥様に最後の電話をされた方もおられたそうです。また、この旅行でサプライズのプロポーズをしようと計画していた若者は、その手紙やプレゼントを渡すことができなくて犠牲になられたというニュースも聴き、いたたまれない気持ちにもなりました。

私も母が特養に入り少し安心しましたが、面会も電話もできず、日が過ぎていきます。病気の後遺症や痴呆が進むと、まだ長生きはするかもしれないけれど、言っておきたかった事、聞いておきたかったことは、もう果たせずに何年か後にお別れの日が来るのかなと思うこともあります。親子でも、この人の人生や、あのときのあの気持ちを聞いたり伝えたり、感謝したり詫びたりしていないままだったなと、いくつかの思い出があるものです。このように、私たちはこの世の命でお別れが来るときに、言っておきたいこと、そして聞いておきたいことが誰にでもあるだろうと思います。

イエス様は、私たちに対してどうでしょうか。

2.聖書

先週から学んでいる通り、ヨハネ福音書の13章から16章は、後に「告別説教」と呼ばれるようになった箇所です。文字通りイエス様の最後の言葉が続き、最後は17章のお祈りで締めくくられています。

これから十字架にかかるという場面で、弟子たちに長い話をされ、祈られたのです。やがて復活されますが、今までの生活では十字架の死の最後が近づいています。イエス様は、何を言い残されたのでしょうか。

先週学んだ13章では、「新しい掟」として、「互いに愛し合う事」を命じられました。

そして今日は14章の後半の「聖霊を与える約束」と小見出しが後につけられたところです。

ここでもう一度イエス様は、「新しい掟」、「互いに愛し合う事」を教えます。そして、これらは自分が一緒にいた時に話してきた事柄だが、父なる神がイエス様の名によって聖霊を送られる時に、すべてを教え、思い起こさせてくれると、別れた後のことを言い残していかれたのです。

去っていくがまた戻ってくる、私を愛しているなら、私が父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ、と続きます。別れていくことになる、それは死への道のりでもあるが、この別れを理解し、喜んでほしいと、心を騒がせたりおびえないようにと、安心するようにも勧められたのです。

3.振り返り

これから起こることがわからないということが多くあるのが私たちの人生です。それどころか、今目の前で起こることさえ、理解できなかったり、受け止めることができない、そんなことも多くあります。

しかしそこに、神様のご計画があることを説明されるのがイエス様でした。たとえそれが普通の考えでは理解できず、受け入れることができないようなことでもです。裏切られ、とらえられ、十字架にかかっていくことになる場面でさえ、イエス様は弟子たちとその将来を気遣いながら、これから起こることを前もって話されました。それは、安心させるためでした。そして、彼らが、あとから信じることができるようになるためでした。このように、別れの間際のイエス様の言葉は、ご自分のことではありませんでした。

神を信じ、人を愛すること。それを最後まで教え、最後まで全うして十字架に行かれたのがイエス様でした。

最後の言い残す言葉は「遺言」とも言いますが、イエス様の弟子たちに、そして人類に命と引き換えに残していかれた言葉・遺言は、その信仰と愛でしたし、その「生き方」、「死にざま」そのものだったのです。

遺言は英語ではTestamentといいます。そしてその言葉は証言や、契約という意味合いも持っています。

イエス様が残された遺言、契約、そしてそれを体験した弟子たちの証言、それが書物としてまとめられていったのが新約聖書。英語ではThe New Testamentという通りです。新しい契約、新しい掟であるからです。

4.勧め

私たちが不安や苦しみや怒りの中にあっても、受け取れないような苦しみや迷いの中にあっても、イエス様はそんな私たちのために、自分の命と引き換えに神様の救いを私たちに与え、死の道への間際に私たちに残された言葉が、この新しい掟と神様のご計画でした。

安心しなさい、後できっとわかる。聖霊が助けてくれる。後から理解できるように、あらかじめ話しておく、というのもイエス様の遺言でした。

今までの自分勝手な生き方という自分のルールでなく、神様と生きていくルールを、そしてイエス様によって開かれた新しいルールを行きましょう。それらが旧約(古い契約)と新約(新しい契約)と考えてもいいでしょう。そんな新しい生き方を、一緒に始めませんか?あなたをお待ちしています。

 

  

ニュースを見て気になるキリスト教ワンポイント講座

そういえば、ロシア正教ってどんなキリスト教? 

今日は東方正教会に話を戻しましょう。1054年に東西にキリスト教が分かれたという事情を見ていきます。

ローマ帝国とキリスト教の関係から復習しますと、キリスト教を迫害していたローマ帝国でしたが、コンスタンティヌス帝が313年に公認しました。夢に見せられた通り「XとP」というギリシャ語でのキリストの文字をあしらった盾で戦争に勝ったという言い伝えが残っています。このデザインは教会の週報のデザインで奈良部牧師が使っていたものです。その後テオドシウス帝の時392年についにキリスト教はローマ帝国の国教とされました。しかし、395年テオドシウス帝の死後二人の子に分割統治させていたのですが、帝国は東西に分裂してしまいます。西はローマを中心とし、東はコンスタンティノープルが中心でした。5世紀くらいから11世紀までの間に、西のローマと東のコンスタンチノープルという二大都市を中心に政治的だけでなく教義や慣習においても溝があり深まってきました。

教会も1054年の分裂前から違いがあり、聖霊論という神学的なものから、聖像を認めるか認めないか、聖職者が結婚するか、髭をそってよいかどうか、聖餐式のパンは種入りか入れないか、クリスマスや復活祭の日程をどう決めるかなどの教会の慣習も違いがありました。

この東の教会がギリシャ、ロシアから東欧や中東地域へ広がって行き、今のロシアや、ウクライナ、コプト、アルメニア、シリアなどの「正教会」という事になります。

最近のニュースで見ることがあるかと思いますが、ロシア正教やウクライナ正教の聖職者たちは髭を生やして黒い式服を着ているので見分けやすいかもしれません。教会はキリストのおられる十字架ではなくて、イコンというやや無表情のキリストやマリアの絵が正面に置かれ、たくさんのロウソクがともされ、聖壇の奥の壁で区切られたさらに奥は至聖所として聖職者しか入れないそうです。

暦が違うので一週間程ずれる復活祭は、私も東京やサンパウロで参加することができましたが、深夜に礼拝があり、真っ暗な礼拝堂から黒い棺を肩に担いだ人たちが教会の周りを数周回り、「ハリストス復活!」と叫び、ろうそくで明るくされた礼拝堂に入っていく礼拝は我々からするととても「異国情緒」があるものです。

「イコン」はパソコンで使う「絵のデザイン」でそのボタンの意味を表す「アイコン」と同じ語源、「ハリストス」はギリシャ語風に発音した「キリスト」のことだと以前書きましたが、ほかには、ヨハネのことはイオアーンといい、ロシアの「イワンのバカ」という本で有名なイワンのことだとわかると意外と身近になりますね。

写真のイコンは1994年に東京の教会にいたころ、付属幼稚園の元卒園生にいただいたロシアのお土産のイコンです。このイコンにはロシア語で「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15.12-13)が書かれているようです。いまこそ、大切なキリストの言葉ですね。(続く)


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