聖書の言葉
エレミヤ1: 4~10 (旧1172)
1:4主の言葉がわたしに臨んだ。5「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前に わたしはあなたを聖別し 諸国民の預言者として立てた。」6わたしは言った。「ああ、わが主なる神よ わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」7しかし、主はわたしに言われた。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。8彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」と主は言われた。
ルカ4:21~30 (新108)
4:21そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。 22皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」 23イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」 24そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。 25確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、 26エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。 27また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」 28これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、29総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。 30しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。
説教「恐れずに畏れる」 徳弘師
1. 「今日の会議はすぐ終わると」と思ったら…
「今日の会議はもめることはないだろうから、早く終わるだろう」と思っていたら、予想外に議論になって長引いた挙句、何も決まらず次回へ持ち越しになった、ということが先月ありました。「大丈夫です、だいたい話は通っていますから、集まって1時間くらいで終わるでしょう」と言われてはるばる出かけて行ったのにふたを開けると大違い。長い話し合いで、ふらふらになって、達成感もなく帰りの車を運転して帰りました。今回は「今度はあまり期待しないで、ゆっくり話し合おう」と思っていたら、予想通り紛糾したけれど、肩の力を抜いて正直に困惑と考えられるほかの可能性を口にしてみたら、説得口調でもなかったのに、最後は意外とそこに落ち着きました。参加者それぞれは悪気がある訳でもなく、目的が違うわけでもないのに、一生懸命に思えばこそ、意見が合わないこともあり、予想外に反対されたり批判されたりすることもあるものですね。会議ではなくても、「簡単な用事と思って出かけたら大変面倒なことになってしまって…」ということなら誰でもあるかもしれません。
正論を訴えても理解されないこともあるかもしれません。予想外にややこしくなって収拾がつかなくなることもあります。間違っていなくても、みんなから「叩かれ」て、嫌われることもあるものです。
2.聖書を学びましょう
今日のイエス様は、そんな目に合われたようです。私たちとは次元はずいぶん違うかもしれませんが、神とともに生きていても、神のことばを語っても、歓迎されるだけではなく、批判され、字通り崖から追い落とされそうになる出来事に私たちは驚きます。今日の聖書では、ここに現れる人々の心のありさまは、また神様の視点は、どういうことだったのでしょうか?聖書を読んでいきましょう。
今日の聖書個所は、先週の続きです。というか、先週の終わりの言葉のところがもう一度読まれ、今日はそこから始める続きの出来事です。ご自分が育った故郷の街の会堂に安息日にイエス様はいかれました。聖書が読み上げられ、イエス様が説教・つまりその説明を始めたところ、みんなはそれに感心し、驚いたのでした。しかし、みんなが驚いただけならよいのですが、思わぬ方向に向かいます。
「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚い」たのですが、感激して聞き従ったのではありませんでした。彼らの口から出た言葉はこうでした。「この人はヨセフの子ではないか」と。
それに対して、イエス様は、「預言者は故郷では歓迎されないものだ」といわれ、「ここは故郷だからここでもいろいろ良いことをしてくれよ、とばかりに言うのだろう」という具合に人々を諫めます。
すると「これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした」と恐ろしい展開になっていくのでした。崖ぶちに背を向けたイエス様の挿絵がありますが、危機一髪の展開になります
3.振り返り
さて、この挿絵を見て、私はどこにいるでしょうか?もちろん自分の絵はここには描かれてはいません。しかし、ちょうどこんな状況になる時があるかもしれません。崖を背にして神様の言葉を語るイエス様の側でしょうか?それとも、イエス様を指さし、こぶしを上げて非難する側でしょうか?
私には、両方の立場が、その時に応じて、あると思わされます。神の側で攻められるとき、群衆の側で神を責める時。私たちの祈りもそうでしょう。「どうしてこの人たちは分かってくれないんだろう」と優しい気持ちで崖を背にして人々を見る時と、「どうして神様は分かってくれないのか!」と神様に迫る時です。
私たちがこの状況を客観的に理解し、間違えないために、また、責められてつぶれそうになる時、どうしたらよいのでしょうか?
その答えは、今日の旧約聖書に日課を読むと、ヒントを得ることができます。エレミヤが預言者として、つまり、神の願いや計画を人々に告げる職務につかされる時に、彼は何とか断ろうとします。「生まれる前からあなたを選んでいたんだよ」といわれると、「いいえ、まだまだ若いですから無理です」と断ります。
しかし、そこで神様はこういわれました。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」と。
その人がどういう生まれだとか、どんな能力や経験があるかとか、それは、神様の選びには関係がないようです。逆にそればかりを気にするので、自信がなくなったり、恐れたりするものです。
イエス様の説教を聞いた人たちは、その口から出る恵みふかい言葉に驚いたのです。しかし、その反応は、生まれや育ちを知っているゆえに、低く見たのでした。又は逆に、各地で奇跡を起こしたそうだから、昔なじみの自分たちにはもっといろいろ良いことをしてくれないだろうか、と、見当違いの期待をしたのでした。それは、両方とも、神様の視点ではなく、人間の視点でした。相手を過小評価するのも、過大評価するのも、人間的な付き合いや視点だったのです。
今日の旧約聖書は今日の私にも語り掛けます。「若いからと言ってはいけない」神様が遣わすのだから、神様が命じる言葉だから、神様が一緒にいてくれるから」その言葉や使命は、尊く、恵みふかいものなのです。だから、恐れなくてよいのです。
4. 勧め
神のことばにおそれ入った人々は、神をうやまい「畏れる」べきでしたが、人間の目で見てその人の弱さや逆のすばらしさを心配し「恐れた」のでした。私たちも、人に奉仕をしても理解されず傷つくときもあります。聖書の言葉を伝えても誤解されうまくいかず辛い時もあります。一人、崖っぷちに追い込まれたような気持になることもあるでしょう。
しかし、人間の目で恐れず、神を畏れうやまいこの方に従う時に、道が開けます。人にすぐに理解されるためにやっていることではありません。神様の願いだから、その人のためだから、嫌われても、ただ奉仕し、神の愛を伝える人になりたいですね。
牧師の働きも、また牧師に対する教会メンバーの在り方にも同じことが言えるでしょう。牧師が交代する時も、このことを大切にし、若い牧師でも神が立てた方を迎え、一緒に宣教していただきたいと思います。もちろん、立てながらも、誠意をもって進言したり話し合って一緒に道を開いていくものになりましょう。
あちら側でもこちら側でもなく、私たちはみな、神様の側です。そうして一緒に生きる共同体が、教会なのです。祝福を祈ります。
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