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聖書の言葉
ヨハネ2: 1~11 (新165)
2:1三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。 2イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。 3ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。 4イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」 5しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。 6そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。 7イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。 8イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。 9世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、10言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」11イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
説教「この人が言えばその通りに」 徳弘師
1. 水がお酒になったといえば…
今日の聖書の伝える物語は、イエス様の最初の奇跡とも言われるカナの婚礼での出来事です。
とても有名なお話で、その名にちなんだワインも売られています。それは、パレスチナ原産でエルサレムの西方、ラトゥルンの丘のトラピスト会のラトゥルン修道院で作られている「Cana Wedding Wine」といいます。日本でも買えます。聖書にあるカナはガリラヤですからもっと北の地方で、そこには聖書のカナの地だといわれる史跡やそこに建てられた教会もあり、このワインが作られている修道院の場所とは違います。もっとも、聖書にあるカナだろうといわれる場所は諸説あって、確定しているわけでもありません。しかし、一度このワインを飲んでみたいという気にもなるものです。ご利益にあずかるというような気持ではなくて、イエス様のことを思いながらですね。
そんなことを考えていると、「まてよ、似た話を日本でも聞いたことがあるなぁ」と思い浮かぶ話があります。それは、並べて考えてみると不謹慎かもしれませんが、岐阜県にある「養老の滝」です。こんな話ですね。
昔、貧しいきこりが、谷深い岩壁から流れ落ちる水を眺め、「あの水が酒であったらなあ』と老父の喜ぶ顔を思い浮かべたとき、岩から滑り落ちて気を失っていました。しばらくして、気がつくと、酒の香りがするので、あたりを見回すと、近くの岩の間から、山吹色の水が湧き出ており、なめてみると酒の味がしました。これを汲んで帰って、老父に飲ませたところ、大変喜び、すっかり若々しくなりました。
国や宗教を問わず、どこでもこの手のお話があるのか?とも思いますね。
そして修道院ではいろんなご当地の伝説を盛り込んだお菓子やワインなどは話題に事欠きません。日本で昔流行った白ワインのマドンナというドイツワインは、ドイツではLiebfrauenmilchとい呼ばれるものですがその意味は「聖母の乳」という意味。日本語でその名で売り出してもわかりにくいので聖母マリアを意味するマドンナという名前にしたのでしょうか。幼子イエスに授乳する聖画がありますが、ドイツのヴォルムスの聖母教会にちなんだ名前だそうです。ちなみにこのヴォルムスはルーテル教会にも大切な街で、1521年に帝国議会にルターが召喚され、自説を撤回するように迫られたけれど拒絶し、「聖書に書かれていないことを認めるわけにはいかない。私はここに立っている。それ以上のことはできない。神よ、助けたまえ」と述べたといわれる場所です。そんなことに思いをはせながら、味わうのもいいかもしれません。
さて、今日も雑学はこのくらいにして、イエス様のこの奇跡は、これらのご当地の話と何が違うのでしょうか?私たちにどんなメッセージを語っているのでしょうか?聖書を学んでいきましょう。
2.聖書を学びましょう
先週はイエス様が洗礼を受けられて、メシアとしての生涯を始められた転換点になる出来事でした。そして今日は、弟子たちの召命に続いて、イエス様の最初の奇跡が取り上げられています。
母マリアやイエス様と弟子たちは、婚礼に招かれたのですが、その大切な日のワインが足りなくなって困りました。マリアの相談を聞いたイエス様が言われる通りに、水がめに水を入れるとそれがぶどう酒にかわったというのです。そして人々は大変驚きました。
歴史の中での聖画ではよく、壷が描かれていますが最近の聖書訳では研究や時代考証をしていて「石の水がめ」と書かれています。そしてもっと新しい翻訳では水の単位は分かりやすく「80から120リットル」と書かれているものもあります。右の絵の良いところは、水がめにワインではなくて水を「ドバドバ」と入れている決定的瞬間とでもいうところでしょうか。今でいえば「食品偽装の瞬間」ともいえるかもしれません。
3.振り返り
さて、今日の聖書のお話は私たちに何を問いかけ、教えているのでしょうか?
養老の滝の話のように、親孝行をしようとして水がお酒にかわった美談と、そこからくる道徳的教えでしょうか?そうではありません。むしろイエス様は、マリアに冷たく返事をしたのです。「私の時はまだ来ていません」と。しかし、その後が大切です。マリアは召使たちに言いました。「この人が何か言いつけたら、その通りにしてください」と。それを聞き逃してはいけません。自分にはわからない事でも、あるいは場違いなことをお願いしてしまって退けられたように感じたかもしれないけれど、「この方の言うとおりにしてください」という信頼、信仰へとも成長発展していく姿があったのでしょう。それで、その通りになったのでした。頼まれた召使にしてもそうです。人に隠れてかもしれませんが、カメに水をドバドバと入れることは気が引ける非常識な事だったかもしれません。でも、それをやりました。すると、神のわざが起こったのです。
水がワインに変わったという事よりも、「この方の言うとおりにしなさい」というい信仰、そして迷いがあったかもしれないけれどその通りにした行動、それが事態を変えたのです。そこに最初の奇跡の意味があるでしょう。
その続きの学びはこうです。その味を見て宴会の世話係は驚きました。「普通最初良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころ劣ったものを出すのに、こんな良いぶどう酒を取っておかれたのか」と。しかしここでも、私たちはこの事実に驚いてはいけません。その次にこうあるからです。「イエスは最初のしるしをカナで行って、その栄光を現した。それで、弟子たちはイエスを信じた」と。これは、ヨハネの福音書の1章の最後から続いて読むと一段とその意味を味わうことができます。
イエスの誕生と洗礼が書かれ、そのあと、最初の弟子たちが選ばれイエス様に従いました。シモンは「メシアに会った」という兄弟の証言を聞いて付いて気ました。そして翌日ついてきたナタナエルは、どうして自分のことを知っているように言われるのか不思議に思ったのですが、イエス様に「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われて驚き信じたのです。「何でもお見通しの方」と思ったのでしょう。しかしその三日後の今日の出来事では、「イエス様の言葉を何でもその通りにしたら、奇跡が起こった」という出来事を目の当たりにして、イエス様をより深い意味で弟子たちは信じたのです。弟子たちの出会いとついてきた理由、そして信仰が育てられてきていることを一緒に見ることができます。
4. 勧め
私たちはどうでしょうか?イエス様の言葉を毎週礼拝で学び聴きながら、成長しているでしょうか?お門違いのお願いをして退けられてしまっても、この方の言うことは何でもしようと、信じ続けているか。そして、その通りにやってみたら、状況が変わったということを、教会生活の中で体験してきたでしょうか?そんな体験を大切にしましょう。
聖書の知識が増して信仰が深まり成長しているのではなく、こういう体験を通しながら私たちは神様に作り替えられていきます。一緒に歩みましょう。神様の祝福がありますように。
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