1月9日は徳弘牧師は大垣教会で礼拝説教を担当し、岐阜教会では信徒の方がメッセージをしてくれる礼拝があります。礼拝中継はYoutubeとFaceBoolの両方です。どうぞ、おいでください。
聖書の言葉
イザヤ43: 1~ 7 (旧1130)
43:1ヤコブよ、あなたを創造された主は イスラエルよ、あなたを造られた主は 今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。2水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず炎はあなたに燃えつかない。
ルカ3:15~17,21~22 (新106)
3:15民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。 16そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 17そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
3:21民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、 22聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
説教「恐れるな、共にいる」 徳弘師
1. たとえ火の中 水の中…
今日の旧約聖書の言葉を呼んで暫く過ごし、今日の準備をしていましたが、思い出した言葉は「たとえ火の中水の中」という言葉です。
「どんなに難しいことや試練があっても、私は頑張ります!」というようなことを言う時によく使われる日本語ですね。確かに、火の中や水の中では私たちは生きていけませんから、その決意と覚悟をよく表した言葉でしょう。
しかしそのいわれを調べてみて、びっくりました。 これは、歴史が古く、平家物語(鎌倉時代に成立したとされる軍記物語)に出てくる言い回しだそうです。そして実はもっと古くに、万葉集(奈良時代末期に成立したとみられる日本に現存する最古の和歌集)のい歌にもあるそうです。そして、その両方とも、ラブレターのような文章の言葉でもあるとのことで、驚きました。
平家物語では、平維盛(たいらのこれもり)という武将が都の妻に対する説得の手紙に書かれているそうで、「火の中水の底への一緒に沈み、死ぬまで一緒にと思っていたけれど、この戦は大変厳しくて…」というような下りです。
万葉集では、安倍郎女(あべのいらつめ)という女性が男性への思いを詠んだで、「我が背子は 物な思ひそ 事しあらば 火にも水にも 我がなけなくに(巻4・506)」とあり、意味は「あなた そんなに独りで心配しないで何かあったなら火にも水にも飛び込む私というものが一緒にいるじゃありませんか・・・」という具合です。心強い言葉ですね。
これからは、この言葉を口にするときに、そんなに古くからいわれていた言葉なのかと、これらの歌を思い出し、感慨深く語るのも良いかもしれません。しかし、私たちにとってもっと大切な、思い出すべきことは、今日の旧約聖書、そして、新約聖書の出来事です。雑学はこのくらいにして、聖書を学んでいきましょう。
2.聖書を学びましょう
今日の福音書は、イエス様が洗礼を受けられた時の話です。クリスマスにその誕生をお祝いし、その後幾つかの出来事を一緒に読んできました。1月6日のエピファニー・顕現節に、東方の博士が星を頼りに訪ねてきてイエス様に贈り物をしたという話で、クリスマスシーズンは終わります。今でもスペインではクリスマスではなくて、この日に子どもたちがプレゼントをもらう習慣の方が強いそうです。
さて、それも終わり、イエス様が12歳の時のエピソードも学びましたが、いよいよイエス様がみんなの前に出て、メシア・キリストとしての活動を始められる分岐点、それが今日の出来事です。
メシア(救世主)を待ち望んでいた民衆は、ヨハネに期待しました。祭司の息子で生まれるときに父ザカリアが不信仰で口がきけなくなったけれど、その子が生まれたときに口が利けるようになったという出来事は有名だったでしょう。そして、その子は大きくなり荒野で人々に「悔い改めの洗礼を」授けていたからです。しかし、その洗礼は「悔い改めてメシアを迎える準備をしなさい」という意味のもので、彼はメシアではないといいます。人々は困惑しました。そんな洗礼を受ける人々の行列にいたのがイエス様でした。
そして、そのイエス様が洗礼を受けて祈っておられると、「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」という出来事があったというのです。
今日も、イエス様の発言はありません。今日は、どんなメッセージを聞いて行けばよいでしょうか?でも大丈夫です。「天から聞こえた声」があったとありますから、これを考えていきましょう。
これは天から聞こえた神の声でしょう。そして、それは、人類に対する約束が繰り返され、実現したことを表しています。
神様の約束とは何でしょうか?それは今日読まれたイザヤ書にも語られています。「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」どんなことがあっても、神様は人々を救う。というものです。
神から離れ、互いに諍いをし、憎み殺し合いさえしてしまうようになった人類です。アダムとエバの子カインとアベルからすでに、兄弟で殺人事件が起こっているのが聖書の伝えることです。「聖なる書」ですが、最初の数ページから人間の罪深さが伝えられています。そして、私たちも皆、その子孫であり、「生まれながら罪深く」と今日も、罪の告白をした通りの状態です。
3.振り返り
私たちの生き方を振り返りましょう。罪深い私たちはどうしたらよいのでしょうか?
神様は、滅ぼし去るのではなく、立ち返り救われるための呼びかけをしてきました。そしてついに、神の子が人となってこの世にあらわれ、自ら教え生きることを始められました。それがイエス様の誕生とその公生涯なのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と聞こえた神の声は、人間が堕落する前に、アダムを創られた後「はなはだ良かった」と言われた言葉を思い出します。
そして、イザヤ書の約束が果たされ、新しいことが始まってきたことを思い出しましょう。イザヤ書の先程の続きはこうです。「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず炎はあなたに燃えつかない」でした。この声を聴いて、「たとえ火の中水の中」をもう一度思い出しますね。
これは、このように人間が愛する人に語り掛けた言葉よりももっと昔に、天地創造をされた神様が、私たち人間に語り掛けてくれた言葉であったのです。
いよいよ、神の子の誕生と活動開始です。
「洗礼」のことも思い出しましょう。水で洗い清めるのは、多くの宗教でも行われることです。神社でも手と口を順にすすぎ清める習わしがあり、伊勢神宮に参る前に神官たちは五十鈴川に白い衣を着て入りみそぎをする儀式があるそうです。洗礼者ヨハネが施していた洗礼は、それに似たものがあるかもしれません。罪の悔い改めのためですから。しかし、私たちがイエス様によってはじめられた教会の洗礼は違います。一度死に、新しく生まれ変わる事であり、水と霊によって生まれ変わることだからです。
一度死に生まれ変わるのですが、ここでも今日のイザヤ書をかみしめましょう。神様は、「たとえ水の中でも火の中でも私たちを守ってくれる」と約束されている方だからです。一度今までの罪深い自分は死にますが、新しく、本当の価値ある自分として産み変えてくれる。それが、教会の洗礼です。
4. 勧め
どんなに聖書を読み暗記しても、神様の救いはまだ遠いのです。心を決めて、神様を信じて、水の中に飛び込む覚悟ですること、それが洗礼でもあります。
神様が人々のためにこの世に生まれ、現れてくださったのです。
洗礼を受けた方は、そのことをもう一度思い出しましょう。まだの方は、どうぞ、ご相談ください。お招きします。なんといっても、私たちの神様は、たとえ火の中水の中、そして、自らの命を犠牲にするまで、私たちを赦し、愛してくださっているのです。一緒に歩んでいきましょう。
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