聖書の言葉
マタイ 2: 1~12 (新2)
2:1イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、 2言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」 3これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。 4王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。 5彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。6『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」7そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。 8そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
9彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。 10学者たちはその星を見て喜びにあふれた。 11家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。 12ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
説教「明るい星、希望か恐怖か」 徳弘師
1. 「トンネルを抜けると、入ると」…
クリスマスやら年始の礼拝のワンプレートランチの食材の仕入れで、あちこち車で買い出しに回りました。数日前は、あゆみの家の礼拝や垂井の夕礼拝もあり、そんなことで、トンネルも何度か行き来しました。
大野を通ってトンネルを抜けると、雪国とまではいきませんが、岐阜からいくと少しずつ景色も変わり、雪景色になりました。トンネルに入るといつも、「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」という小説の書き出しだけ思い出します。そういえば、夕方の山のきれいな景色を見ると「秋は夕暮れ」という枕草子の一部分だけを思い出し、「続きはどうだっけ?」と考えます。
そんなことを考えながらトンネルを出入りしたりして、トンネルの中の照明の色も観察し、味わいます。昔はオレンジ色のランプが多かったけれど、いまは少なくなりました。どうしてかと調べてみると、排気ガスが多かったころは白いランプだと真っ白になって見えにくいので、フォグランプと同じようにオレンジ色が良かったそうです。でも今は、LEDが主流になり、排気ガス規制も厳しくなって白い色が増えたとか。
そして、面白いと思ったのは、トンネルの入り口が明るくて、その後少しして明るさを落としているそうです。それは、トンネルの中が真っ暗に見えて危険だからということと、入った後急に暗くて見えなくなるのを防ぐために入り口ではできるだけ明るくしてあるとのこと。そして出口でもまた明るくしてあるそうです。それは、昼間にトンネルから出て急にまぶしく感じることがないようにと、そんな工夫もあると知りました。
2.聖書を学びましょう
今日の聖書は、光として世に来られたイエス様のことがヨハネ福音書の1章から読んでいくところと、星の光に導びかれた顕現主日としてマタイの福音書の2章を読むところの二か所から選ぶことができるようになっています。それぞれの場所を読みながら、今日のトンネルの明かりのことを思いめぐらしながら年末年始を過ごしました。
イエス・キリストはメシアとしてこの世にお生まれになりました。それは、「暗闇を照らす光」であったのです。そしてまた、東の国から異国の異教の博士たちとも言われる人たちがそのしるしを見て探し当てることができたのも、「いっそう明るく輝く星の光」によって導かれたのでした。
しかし、今日の福音書は、その光を、あたたかく、足元を照らしてくれるありがたいものとしてだけではなく、逆のものとしても描き、私たちにその生き方を問いかけます。
ヨハネの1章では「命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」と、受け入れない闇の人々のことを告げています。
そして、マタイの福音書では、その輝く星の光を「希望の到来」と見て喜んで歓迎した人たちと、「脅威」としてみたヘロデ王のコントラストが伝えられています。
3.振り返り
私は、どちらの立場でしょうか?皆さんは、どういう風に受け入れ、生きているでしょうか?
それを今日の聖書は、私たち一人一人に問いかけているのです。
トンネルの話を思い出しましょう。昼間にトンネルに入ってそこにランプがなければ、真っ黒の穴にしか見えないトンネルに突入するので、それは恐怖です。これを「ブラックホール現象」というそうです。それを避けるために、ランプを、しかもこの入り口では一段と明るい明かりをともしているのだということでした。目が慣れたころには、少し明かりを落とされています。しかし、出口近くではまた出る準備をしなければなりません。急に明るみに出ると今度は目がくらんで真っ白に見える「ホワイトホール現象」ということが起こり、事故の危険性が増すそうです。トンネルの出口が暗闇の中の真っ白な穴に向かっているように見えるから、そう呼ばれているそうです。
苦しみや寂しさで、暗闇の中にいるような時が人生にはあります。明かりを求め、あたたかさを求めます。しかし、闇に紛れて悪いことをして生きている時は、あまり明るいとそれは都合が悪いことになります。今日のヘロデ王は人々のために生きる王ではありませんでした。ローマ帝国の皇帝や遣わされた提督、またユダヤ教を否定するような権力とうまくやることで自分の権力や富も保っていたからです。そこに、ユダヤの王・約束されていたメシア・キリストが現れるのは都合が悪かったのです。星の光を頼りにキリストに会いに来た異邦人とは違って、「私も拝みに行くから」と言いながら実はそれを亡き者にしようと考えたのでした。
暗闇を嘆く人々には救いの光でも、闇に紛れる人にはすべての罪が暴かれる迷惑な光でもあるのです。
4. 勧め
私たちも今までの生き方を変えて、神様と一緒に生きていきましょう。闇の中から急に明るみに出るのは怖いですか?目がくらんでしまうでしょうか?神様はトンネルの光のように、少しずつ明るくしてくれて、配慮をしてくださるでしょうか?そんなこともあるかもしれません。しかし、突然その時がやってくるかもしれません。思い切って光の中を歩みましょう。
実は、人生の中では、目がくらんでもその方がいいかもしれません。あのサウロも輝く光とともに突然現れたキリストに出会って、目がくらみ、暫く見えなくなっていました。人間の目は、そしてその脳の機能は、自分の関心のあるものを大きく見、好きなものを選んでみる習性があるそうです。
たとえば、満月のきれいな夜にスマホで写真を撮るとわかります。スマホの画面に街並みと満月をおさめようとするとなんと難しいことかと、気づかされます。意外と満月は小さいからです。人間は関心があるもの、見たいものに目をやり、頭の中でそれを拡大して、そこだけを見ているから満月は実物以上に大きく見えるそうです。しかし、カメラやスマホのフレームに入れると、全体が均一に入って来るので、「お目当ての物」は意外と小さかったことに気付かされるのです。
暗闇から明るい光の中に出て、それに打たれ、目がくらんで、一度すべて見えなくなり、本当の真っ暗闇に閉じ込められるとき私たちは変えられます。私たちは間違った先入観や、自分へのおごり高ぶり、無意識に選び取って見ていた事柄のなんと多かったことかに気が付かされます。
そんな私たちのもとに、キリストは生まれてくださったのです。この方は私たち異邦人も含めて、すべての人々のために生まれ、現れてくださったのです。
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聖書ワンポイント講座・風の谷より「礼拝で読む旧約聖書」
顕現主日の日課は毎年同じ諸国からの朝貢とペルシャのマギたちの訪問なので、礼拝の中で旧約聖書を読むということを考えてみたいと思います。昔、これは日本だけだと思いますが、戦前は礼拝で旧約聖書を読むことはなかったそうです。戦後になってアメリカの教会からの指導もあって、礼拝の中でも旧約聖書が読まれるようになりました。プロテスタント教会中で保守的な所は礼拝にきゅうを持ち込むことはあまり好みません。
対して、私たちルーテル教会は、ルターが大学教授としての専門が旧約神学でした。また礼拝で聴くべきみ言葉は、律法と福音としていることもあって、礼拝の中で旧約聖書を読むことは積極的だと思います。主日の日課にしても、旧約編と新約編が関連するように定められています。第2日課はそれとは別に連続日課として読めるように編まれています。今年も特に礼拝で聖書のことばを聴き、養われながらみことばに生かされていきましょう。
シャローム!(三木久人)
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