2022年1月23日日曜日

週報・礼拝メッセージ 20220123

 


聖書の言葉 

ルカ4:14~21 (新107)

4:14イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。 15イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。

16イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。 17預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。

18「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、19主の恵みの年を告げるためである。」

20イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。 21そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。


説教「今日実現する」 徳弘師

1. 「締切り」の苦しさ「満期」の嬉しさ…

私たちの人生には、何かと「締切り」があります。仕事柄、そんなことに追い回されているという方もおられるでしょう。私も広報室長になり機関紙「るうてる」を編集していたころそうでした。原稿を依頼して集め、自分もいくつか記事を書き、写真やイラストを編集し、それらを紙面に割り付け編集し、業者にデータを渡す日が毎月決まっていました。原稿が集まらなかったり、予定が急に変わって記事を差し替えたり、パソコン編集に切り替える前は業者の人が受け取りに来ていたので、応接室で待ってもらって汗をかいて仕上げたり、付き合いが長くなるとその人のご自宅による車で届けたりするときもありました。

反対に「満期」という嬉しいこともあります。もう少し辛抱したらその日が来るから、もう少し我慢しようと思います。昔は、年季奉公が終了するというのがあったようです。今なじみ深いのは定期預金が満期になるというのがあるかもしれません。私も、日本に帰国して日本での生活を再出発するときに、生活用品や車を買い替え準備して大変な時もそれなりにありました。月末にお金の心配をし、支払期日があるものに追われるという生活は誰にもあるでしょう。私も海外生活でわずかな貯金を使い果たし、帰国後の数年して一つの定期預金が「満期」になり、大した金額ではありませんでしたが、ほっと一息ついたことを思い出します。

今日の聖書を読んで、そんなことをしみじみと思い出しました。それは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とイエス様が言われたからです。「今日実現した」とは、何が実現したのでしょうか?今の私たちにどんな関係があるのでしょうか?聖書を学んでいきましょう。

2.聖書を学びましょう

イエス様は育った町のなじみの会堂に入りました。今の私たちからすれば、「こどものころから通っていた教会」というイメージでしょう。会堂とは、かつて国が滅びバビロン捕囚として異国にいたころから、エルサレム神殿ではなくそれぞれの街に建てられた礼拝所で安息日に礼拝をすることが彼らの信仰の大切な拠点になっていました。「シェマ・イスラエル(イスラエルよ聴け)」という申命記4節の祈りと信仰告白を皆で唱え、聖書が朗読され、会堂司が依頼した人によって聖書の解き明かしがされていたそうです。当時の聖書とは、今でいう旧約聖書の一部分で、そのモーセ5書、律法と預言書の中から一部分が読まれたのです。当時の習慣により、イエス様も何日か前に会堂の係から説教することを頼まれていたのだろうと理解されています。

さて、その日読まれたのは、今日の福音書で18.19節に引用され触れられているところでした。それは、イザヤ書の61章からでした。これは偶然ではなく、聖霊による導きだったのです。そこに書かれている預言が大切で、「それが、今日実現した」とイエス様は解説を始められたのです。

何が実現したかを知るためには、今日のイザヤ書を考えねばなりません。それは、「主の霊がとどまり、貧しい人に福音を告げ知らせるために私に油を注がれた。主が私を遣わせたのは、捕らわれ人の解放、目の見えない人の回復、圧迫されている人の自由」が訪れるためだと書かれています。そして、「主の年の恵みを告げ知らせるため」ともイザヤは預言しているのでした。

次に私たちは、安息日とヨベルの年について学ばなければなりません。神様は6日間働いて7日目は休むよう定められました。それが、「安息日」です。安息日を意味するヘブライ語の「シャバト」はそのまま今でもポルトガル語やスペイン語、インドネシア語でも「土曜日」の意味で使われています。多くの人は、語源を知らずに土曜日を「安息日」と今でも呼んでいます。

そして7年目の年を「安息の年」と呼んでいました。この年は畑を休ませる規定で、耕作は許されていませんでした。たくわえとともに、自然にできたものを土地の所有者ではない人とともに分け合って生きる一年でした。人も、自然も休ませるべきだ、自然を大切にして分け合って生きるべきだと、今の私たちが学ばねばならない事が決められれていたのです。特にコロナ禍の今、心にとめさせられます。

そして、その安息の年が7回巡ってきた翌年、つまり50年目を「ヨベルの年」と呼んでいました。「ヨベル」とは、安息日のはじまりと終わりの合図として、会堂の屋上からラビが吹き鳴らす「雄牛の角笛」のことでした。英語ではJubileeと言います。さてこの「ヨベルの年」は特別な意味が込められていました。その年には三つのことが行われると規定されていたからです。それは、1)畑の休耕、2)売られた土地の返還、3)奴隷の解放でした。畑は安息の年と同じように休ませ自然を大切にし、皆で分け合って生きること。買った土地も元の持ち主に返し、借金がある人は帳消しにされ、奴隷は解放されて家族のもとに帰ることができたのです。レビ記25章に規定されています。

厳密にそれが実施されていたかどうかは確証がないそうですが、聖書に規定されていたそれらの伝統を知り、生きていた彼らが待っていたのは、このような年が巡ってきて、すべてが解放される時だったでしょう。

それに加えて、油注がれた者、つまり本当の王様が立てられ、今の難しい世の中を解決してくれる、メシアを待つ気持ちがあり、ローマ帝国の支配に苦しんでいた当時の人々はそれが頂点に達していたのです。

それを知り味合う時に、今日のイエス様の言葉の意味がしみじみと理解されるのです。

3.振り返り

さて、今の私たちにとって、何が実現したらうれしいでしょうか?今読んできたのと同様、積み重ねてきた問題、膨れ上がった借金、ややこしくなってどうにも解決できない問題、それらを抱えて生きていませんか? それらすべてを解決してくる日が来るなら、その日が待ち遠しいと思います。

年季奉公が終わり、いよいよ務めを果たして自由の身になれる。あるいは、毎月末に少ない残金をやりくりして何とか月を越していたけれどようやく定期預金が満期になるので一息つける。そんな気持ちは想像しやすいでしょう。奴隷制度はピンとこないかもしれませんが、奴隷のような生活で苦しんできたけど、自分の身を買い戻してくれて、自由になれる年、それがヨベルの年です。教会の用語で、「贖われる」という言葉は実はこの「買い戻してくれる」という意味を持っています。洗礼を受けるのはそういうことです。

4. 勧め 

 単に「今日、実現したよ」「いいことがあるよ」ではなくて、これらの意味を重ね合わせながら、すべての問題を解決してくれる、待ち遠しかったその日が来た、ということでした。もうこれからは、借金取りを気にしなくてよい、苦労して人に使われることもない、離れていた家族のところに帰れる、のです。そして、それは神様との関係でもそうです。もう、安心していい。びくびく恐れなくていい。借金を帳消しにしてもらったように、今までの罪を赦してもらった。そんな特別の年、いや「特別の時」が来たのです。

 ポルトガル語やスペイン語ではこのヨベルの年を語源にして、定年退職することをJubilarと言います。あくせく仕事をしなくて良い、解放された。後は悠々自適の年金暮らしだ、という気持ちが込められています。今の日本でこれからの「年金暮らし」は、たくさんの不安があるかもしれませんが、それは自分も選挙して政治参加して改革をお願いすることにして、「あとは国が養ってくれる」という安心感を考えるなら、「あとは神様が養ってくれる」という安心感を考えると理解しやすいでしょう。

私たちの信仰生活は実は、そんな意味もあるでしょう。もう何も心配しなくていい。神様と一緒に、悠々自適の生活を、いたしましょう。それは、イエスキリストがいてくださるから、実現したのです。一緒に、この方のことばを聞きながら、安心して生きていきましょう。


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