2022年2月5日土曜日

週報・礼拝メッセージ 20220206

 週報・礼拝メッセージ 20220206

あすは、岐阜教会で礼拝メッセージをします。大垣でも、信徒礼拝があります。どうぞ、おいでください。でも、大雪警報も出ました(現在)。おきをつけて、またはむりされないで。YoutubeやFacebook中継もあります。




聖書の言葉 

ルカ5: 1~11 (新109)

5: 1イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。 2イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。 3そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。 4話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。 5シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。 6そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。 7そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。 8これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。 9とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。 10シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」 11そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。。


説教「何をいまさら、という時でも」 徳弘浩隆師

1. 「だから、あの時そう思ったんだ」と…

大変な失敗をした後、落ち込む気持ちに追い打ちをかける言葉がありますね。「やっぱり、そうなると思っていたんだ。どうしてそれが分からなかったのかねぇ」という言葉です。

全然関係ない人で、あとから聞いた話でそう言われるならまだしも、「一緒にその場にいて、その時は何も言われなかったのに、今になってあなたが言うのか?」という状況の時があります。

最近は母の入院で父とは二人だけでいろいろと話すことがあり、急に一人暮らしになってしまった父は少し寂しい思いをしながらでしょう、多少自虐的な事でも思い出して話すことがあります。二人で笑いながら意気投合しました。

それはこんな具合です。「少し車の運転が下手になってきたかなぁと思うことがあるんだ」と私が言うと、父の話が始まります。「父さんも歳を取って下手になってきて、ちょっとしたところで車をぶつけたりしたよ。若いころは上手だったけど、つい標識を見逃してスピード違反で捕まったりしたなぁ」と。そして「そういう時いつも母さんに怒られたもんだ。『どうしてこんなことに気付かなかったの?私はここ危ないと思っていたのよ』」と。そして二人の共通の意見はこうです。「そうだそうだ。ああいうの、いつも後から言うんだよね。私は分かってたって。本当だったら、どうして、その時言わないのかねぇ。しかも、自分は免許持ってなくて運転しないのにねぇ」と二人で大笑いするのです。

もちろん、陰で悪口を言うのではなくて、母親がいなくて寂しくて、二人でしみじみと笑うのですが。

そこには二つの論点があります。「あの時は何も言わなかったのに」、ということと、時には「あなたは専門外で何もしらないくせに」ということです。

2.聖書を学びましょう

今日のイエス様も、少し似た状況でしたが、大きく違うことをされました。

ゲネサレト湖畔、これは別名ですが、ガリラヤ湖の湖畔でのイエス様の活動の初めのころの出来事でした。

評判のイエス様のお話を聞こうと群衆が押し寄せてきたのですが小高い丘もなく、ちょうどよい教壇のような話をしやすいところをと思われたのでしょう。岸で漁の後の網を洗っていた舟の持ち主に頼んで、それに乗り込んで、少し漕ぎ出してもらいました。そこで船に腰を下ろしてみ名に話をされたのです。どのくらい話されたかは記されていませんが、話が終わって、さて舟を岸に戻そうという時が来ました。しかしイエス様は舟を岸に戻すのではなく、逆に「沖に漕ぎ出して網を下ろしなさい」と言われました。

その舟の持ち主シモン、つまりシモン・ペトロは少しの問答をしますが、言われるままにしました。すると、たくさんの魚が獲れ、イエス様の呼びかけに従って、イエス様に従うもの、つまり弟子になっていったというお話でした。

3.振り返り

さて、これを読んで、イエス様の奇跡の力を見るわけですが、それだけだと、それなりの「昔の奇跡の物語」という「ありがたい話」に終わるでしょう。

しかし、ペトロの気持ちを考えてみることが、今の私たちに神様はこの出来事を通して何を語り、何をなさり、何を願っておられるかを聞くことができるようになります。

ペテロの状配はこうでした。1)夜通し苦労したけれど何も獲れなかった。2)収穫がないので疲れが倍増してようやく岸で後片付けをしていた。3)そんなところにやってきて、自分の事情を何も知らないこの人が話をするために舟を貸して少し出してくれと言われた。4)でも、評判の偉い先生だし、この人の願いにこたえてあげようかと思った。5)ようやく話が終わって、岸に戻ってさっさと後片付けを済ませて家で一休み、ひと眠りしようかと思っていた。6)そんな自分の気持ちも知らないで、沖に行って網を打てというのか。7)この漁は夜やるものだから日中にやっても無理なのに、この人は何を言うのか。8)そういえば、この人は大工の息子らしい、漁のことは何も知らないんだ。9)どうせ来るならあの時、夜に漁に出る前に来て言ってほしかった。もう遅いよ…

推測も含めて想像を広げてみると、こういう具合かもしれません。私が父と母のことを思い出して、少し身勝手な母の発言を懐かしく笑った、「そういうなら、あの時言ってくれたらいいのに」「あなたは、専門外で何も知らないくせに」という気持ちも思い出します。そして、上の9つのペテロの心の中のセリフは、良く考えてみると、私たちの人生で何度もつぶやいたことがあると、身に覚えがあるものです。人間関係で、そして、神様との関係でです。そんなことはありませんか?

「人の苦労も知らないで。どうして神様、あの時に声をかけてくれなかったんですか?今じゃあ、もう遅いですよ。それで、もう一度しろっていうんですか?いや、これには難しい事情もあるし、あなたは何もわかっていない。それより、私は今から帰って、ゆっくりしたいんですよ。結果が出なかったいま、非常識にもう一度挑戦することよりも、家でゆっくり寝ることがわたしの願いなんですよ。もう、ほっといてください。人の人生に急に勝手に入り込んできて。振り回されるのはもうこの辺で終わりにしたいです。やってみてダメなら、責任取ってくれますか?」

と、もう少し自分に覚えがある言葉にするとこういう感じでした。そんなペトロに、イエス様は何をされたのでしょうか?「何も知らないくせに」だったのでしょうか?

イエス様は、神様は、そんな気持ちを全部知っておられたのです。だからこそ、「今からもう一度やってみよう。このまま家に帰って『ふて寝』するんじゃなくて、私の言うようにやってごらん。私が責任を取り、保証するから」という促しをして、そして、結果を見せてくれました。これで、ペトロは驚き、自分の罪深さを告白し、自分から離れるよう願いました。それは、自分が遠ざかるのではなくて、舟の上ですから、この自分の罪深い船から降りて遠ざかってください、と願ったのかもしれません。どんな失敗だらけの舟・人生でも、イエス様の願いにこたえようと知らずにしたことが、イエス様を招き入れることになりました。そして、貧しく徒労に終わった罪深い人生と、できるならあの網がいっぱいになるほど魚が取れたら生活も楽になるのに、という願いもすべて神様は知っておられ、予想外の命令をし、それを信じ従った時に、たくさんの恵みをくださったのです。

4. 勧め 

神様の呼びかけはいろいろなきっかけがあるでしょう。聖書の言葉や、教会が直接心に響くことも、誰かの言葉を通してという時もあるでしょう。反対に、困っている人を助けてあげようと、その願いにこたえてを貸してあげている時に、逆にイエス様にその手をつかまれ、新しい人生に引き込まれることもあるのです。

教会の働きは、聖書を学ぶだけではありません。勉強が苦手とか、自分みたいな罪深いものがとか、関係ないのです。イエス様にいろいろなきっかけで手をつかまれ、引き上げられれ引き込まれ、不完全さを認めそれ(罪)をゆるされ、新しい人生を始めた人たちの集まりです。一緒に笑い、泣き、祈り合い、助け合う、神の家族の共同体です。さあ、あなたも、いっしょにどうぞ!


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