落ち葉を掃除しても風に吹き飛ばされて元の木阿弥。そんなことありませんか?教会の牧師館に住んでいると、よくある話です。妻と二人、頭を抱えて、何度も何度も掃除… まてよ。これは、僕らの人生かもしれません。聖書にそんなところがあったな。 どうすればいいでしょう? 礼拝で考えましょう。大垣教会でメッセージしますが、YoutubeとFacebookでも中継します。どうぞ、おいでください。
聖書の言葉
詩篇1:1-6
1いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず 2主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。3その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び 葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
4神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。5神に逆らう者は裁きに堪えず 罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。6神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。
ルカ6:17~26 (新112)
6: 17イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、 18イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。 19群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。20さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。21今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。22人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。 23その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。24しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。25今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。
26すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。
説教「風に吹き飛ばされる もみ殻」 徳弘浩隆師
1. 「つたのからまるチャペルで」…は素敵?
「蔦のからまるチャペルで 祈りをささげた日~♪」という有名な歌があります。教会の一つのイメージで、それは素敵な、神聖な、祈りの場所です。しかし、興ざめするかもしれませんが、教会に住んでいる牧師からすると、ちょっと面倒なことでもあります。雑草を刈って、からまった蔦を引き抜いて、フェンスから丁寧に外していかなければならない、夏の毎週の作業が待っているからです。去年は岐阜教会は奉仕者も得て草刈りをして、防草シートを敷いて、上に茶色の瓦チップというのを敷設しましたので、それ以降はだいぶきれいに、楽になりましたけれど。
さて、草刈りの跡がまた大変です。秋の落ち葉も同じです。風が強い日は何度ほうきで掃いても、集めても、吹き飛ばされて元の木阿弥。隣の家の駐車場にも広がってしまって、妻が悲鳴を上げながら集めます。
今日の聖書の詩編の冒頭部分、「神に逆らうものは、風に吹き飛ばされるもみ殻」という言葉は、身に染みます。神に従うものと、神に逆らうものの人生を、そんな風にたとえています。それは、何度頑張っても、うまくいったと思っても、風が吹けば吹き飛ばされて元の木阿弥。いや、もっと状況はひどくなり、手に負えなくなる。そして実は、吹き飛ばされるもみ殻や落ち葉の方が、行き場のない自分の人生。それが、神様に従わない者の人生といわれます。なるほど、そうだなぁと、思い知らされます。
2.聖書を学びましょう
今日の福音書のイエス様の言葉も、何が幸いで、何が不幸かということを話されています。詩編のストレートな言葉と違い、イエス様のお話しは少しびっくりするような予想外の言葉で、人々の心に訴えています。
それは、「貧しいものは幸いだ」といわれるからです。誰でも、貧しさより豊かさを願います。飢えよりも満腹を、泣くことよりも笑うことを、憎まれるよりもほめられ好かれることを願います。しかし、その逆の、私たちが願わないことの方が「幸せなんだよ」と言われました。これは、どう理解したらよいのでしょうか?
その理由は、不幸な人のことを言うイエス様の言葉を聞くと分かります。彼らはすでに、慰めを受け、満腹し、称賛を受けている、つまり、満足してしまっているからということがカギです。満足そのものが悪ではないでしょう。そのとき人間が陥りがちな落とし穴が問題なのです。
それは、満足して神様に感謝して、人にも分け与えるのではなくて、自信過剰になり、もっと独占しようとする心の動きが、私たち人間にあるからです。そんな自己中心の心、どうしようもないくらい罪深い心を持った私たちのことを、聖書は「罪人(つみびと)」と言います。自分を愛し、人を疎んじる。幸せを感じ、苦しい時のことや苦しんでいる人のことが見えなくなる。それが私たちの哀れな姿です。
それよりも、貧しく、悲しく、飢えている時の方が、神様に頼まざるを得ない謙虚な時の方が、本来的な神様との関係が保てるというのです。
3.振り返り
私たちはどうでしょうか?貧乏をしたことがあると、その時の心細さを知っているから、安定してきたときに神様に感謝して、苦しみの中にいる人たちを助ける心があり続ければいいのですが。また苦しくなってはいけないと、せっせとため込んで他の人のことなど気にしなくなるかもしれません。挿絵にあるように、風に吹き飛ばされる紙幣を追いかけ、自分の豊かさだけを追い求めて走り切る人生は、終わりの頃には幾分たまるかもしれませんが、目の前にはもう終わりが迫っているのです。もちろんお金も大切です。しかし、こんな最後まで安心できない人生を送ってはいないでしょうか?
私たちは、喉元を過ぎれば熱さを忘れますが、それを忘れないためにはどうしたらいいのでしょうか?今日の福音書の最初にもカギがあるように思います。
マタイが伝えたイエス様の姿と、ルカが書き記して伝えた姿には視点の違いがあります。マタイは、旧約聖書をたくさん引用しながら、イエス様は預言されていたモーセのように人々を解放する方、神様との仲介をしてその言葉やおきてを伝え、奇跡をする方という印象が強くあります。だから、「山上の説教」といわれるように、山の上で人々に語った日のことを書き残しています。モーセが山に登り十戒を得てきて人々に伝えたのをほうふつとさせるようにです。
しかし、ルカは山の上ではなくて、「彼らと一緒に山から下りて、平らなところにお立ちになった」のです。そういえば、先週のイエス様の説教をした場所も、小高いところではなくて、みんなを小高い岸辺において自分は小舟に乗って湖からみんなに語りました。ルカは、高いところから来られた神の子や預言者ということよりも、低くされた人、苦しみあえいでいる人たちと同じところにいるイエス様の姿や姿勢・生き方がたくさん伝えられているのです。
4. 勧め
ユダヤの民も、他国で寄留の生活をし、奴隷のような境遇に苦しんだ歴史がありました。だから神様は「寄留の民を愛しなさい。あなた方もかつてそうだったのだから」という掟が旧約聖書の中にすでにあります。しかし、そこから救われると、他の民を圧迫し見下すようなところがありました。「自分たちは選ばれた民で、特別なんだ」と、救われた出来事を思い出す過越祭などを大切にしますが、他者を愛し助けるようにという神の愛の勧めは忘れていました。今日のイエス様の教えはそんな状況の上にも立っているのです。
あなたはどんな苦しさを体験しましたか?それから解放されたら、「やれやれ、よかった」ではいけません。かつて自分がそうだったから、そういう人に手を差し伸べるよう、促されています。それぞれ違っていいのです。潜り抜けてきた人生が違うからです。寂しかった、苦しかった、辛かったその思い出は、閉じ込めるのではなくて、神様に開放していただいたことを思い出し、そんな人に自分は出会っていきましょう。そのとき、あなたの差し伸べる手は、あなたが聞いてあげる耳は、キリストの手、キリストが聞いて下さるやさしい耳になります。
祈りましょう。「神様、私をキリストの手にしてください。耳に、口にしてください。この世界で苦しんでいる人に、神様の救いと愛を伝えさせてください。」
みんなの幸せは、そこにあるはずです。
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