2022年2月19日土曜日

週報・説教メッセージ20200220

ブラジルの集会所で英語や音楽を教えていた中の一人、ブラジル人のTiago(チアゴ)は14歳くらいで、ちょっとわがままで難しい子。ある日帰り際に彼に会い、私は手を振って言いました。「Tiago, Te amo!(チアゴ、チアモ!)」。とっさに口を突いて出たダジャレで「Tiago, I love you!」という意味。車のスタッフの大人たちは大笑い、Tiagoも照れたような顔をして、「Tchau Senasei(チャオは、さよならの意味)」と手を振ってくれました。僕らは人を愛するときに、どんな理由があるでしょうか?難しい人を愛すること、ましてや敵を愛することができるでしょうか?教会で一緒に考えてみましょう。明日もYoutubeとFacebookでも中継します。





聖書の言葉 

ルカ6:27~38 (新113)

6: 27「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。 28悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。 29あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。 30求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。 31人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。 32自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。 33また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。 34返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。 35しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。 36あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

37「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。 38与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」


説教「I love you, because…」徳弘浩隆師

1. 大嫌いだから、大好き?

ブラジルのスラム街でそこのブラジル人のお世話をしていましたが、子どもたちの中に、Tiago(チアゴ)という男の子がいました。聖書に出てくるヤコブのポルトガル語の言い方です。14歳くらいのその子は体格のよい子で、少しむつかしいところがある子でした。いうことを聞いてくれないでわがままを言ったり、急に怒ったり、時には友達をたたいたりして、大人を、また仲間の子どもたちを困らせることもある子でした。

ある日、その日のクラスやおやつの時間も終わって、片づけをして大人のスタッフが車でサンパウロに帰る時、道にいるTiagoに会いました。私はとっさに手を振って言いました。「Tiago!」 すると彼が振り向きました。さよならを言おうと思いましたが、なぜか私は「Tiago, Te amo」と言いました。Te amo(チ・アモ)というのは「I love you」という意味ですが、「チアゴ」と「チアモ」は語呂もいいし、とっさに口を突いて出たダジャレでした。車のスタッフの大人たちは大笑い、Tiagoも照れたような顔をして、「Tchau Senasei(チャオは、さよならの意味)」と手を振ってくれました。

一番頭が痛い、いわゆる「面倒な子」「問題児」ともいえる子ですが、それから彼の名前と、ポルトガル語でいう「I love you」の言葉はセットで思い出し、呼びかけるようにもなりました。

ダジャレの続きの面白いオチも思いつきましたが、スタッフの大人には言っても、彼には言わなかったと思います。それはこういう具合です。「どうして先生が君のことを愛しているか知ってる?」という意地悪な質問をして、「どうして?」と聞かれるとこう答えてギャフンと言わせたかったのです。「それはね、イエス様は言われたでしょ。敵を愛しなさいって。だから、君が大嫌いだから、君を愛しているって言ったんだ」と。

そんな意地悪なことを言って「思い知らせる」ことはしなくても、彼に教会でパソコンや音楽や聖書を教えながら一緒に過ごした数年間で、ずいぶん落ち着いて柔らかい子になりました。

2.聖書を学びましょう

今日の福音書のイエス様の言葉は、分かりやすいですが、難しいことを言われています。「敵を愛しなさい」というからです。愛せないものに対して、どうしてこんなことができるでしょうか?

では、そもそも、どうして愛せないのでしょうか?

イエス様が「愛せよ」という命令の言葉を聞くと、愛することが出来ない理由はこういうことになります。「あなたを憎む、悪口を言う、侮辱する、頬を打つ、上着を奪い取る」からですね。もっともです。

逆はどうでしょうか? 人々が誰かを愛したくなる理由は、イエス様の話に出てくる順でいうと、こういうことでしょう。「自分を愛してくれる、良くしてくれる」から、ということですね。これももっともな話です。しかし、それの反対をしなさいと言われると、実際には難しいことばかりです。

3.振り返り

私たちが何かを、誰かを、愛する基準、理由は何でしょうか?それは、「自分にとって何かメリットがあるかどうか」という尺度が大きいでしょう。

自分にメリットがある、心地いい、うれしい、は自然に人の心を開かせます。

TVコマーシャルの世界で昔から「3B」というキーワードがあるといわれます。「これに当てはまったCMは、だいたい評判がよく、ものがよく売れる」そうです。その3つのBとは、Beauty, Baby, BeastのBです。いわゆる「美人、美男子」と「赤ちゃんや子ども」、そして「(かわいい)動物」が出てくると、だいたい無条件で人は心を開き、動かされ、受け入れやすいというのです。製品の機能や安さや便利さをデータで示すよりも、人々がその製品に心を動かされ、購入頻度も上がるらしいのです。TVでCMを見るときに、今度気にしてみてみてみると、面白いかもしれません。

ブラジルでも別の「3B」という言葉を教えられました。買い物でお店の人が進めるとき、「これは3Bです」と冗談でよく言われます。それは、Bom, Bonito, Baratoでこれらは「いい(良いや美味しい)、きれい、安い」という言葉のことで、これも納得がいきます。

私たちは、知らずのうちにこういう尺度を持ち、こういうものを探し、大切にし、心動かされます。しかし、神様の尺度は、これらとは、違うようです。ここで私たちが考えさせられることは、「愛することに理由があるのか?」「理由が要るのか?」ということです。

私が冗談でTiagoに「どうして先生が君を愛しているか知ってるかい?」と聞いて、「どうして?」と聞かれたら、こんな答えが考えられます。

1)私が冗談で言ってやりたかったように、「イエス様が敵を愛せと言われたから、敵のように大嫌いな君を愛しているんだよ」と。これはいただけません。

2)「君がとってもいい子で、素直でかわいらしくて、優しくて、よく先生の言うことを聞いてくれるからだよ」とか、「君のお父さんがたくさん教会や学校に寄付してくれるらかだよ」かもしれません。これもだめですね。

3)「いや、理由なんかないよ。一人一人、とっても大切だからだよ」「神様は、誰でも、みんなのことを愛しているからだよ」でしょうね。

 計算高いのではなく、自分への見返りを求めるのでもなく、神の愛は、条件や理由などないのです。

4. 勧め 

昔の宣教師が聖書の言葉を伝えるときに、あまりなじみのない「愛する」という言葉は使いませんでした。日本の当時の人たちにわかりやすく、また勘違いされないような、適切な言葉を探しました。そして、「ご大切」という言葉に行き当たったそうです。

「神は愛なり」は、「神様はあなたを、ご大切になさる方ですよ」となるかもしれません。「神様」も神道の神様と誤解されてもいけないので、宣教師のポルトガル風に「デウスさまは」とか、それを日本語に当てた「天主様は」となっていたかもしれません。でも、「愛する」は「大切にする」です。 神様は、どんなに自己中心でわがままで、かけだらけのものでも、愛しておられる。「ご大切」にしてくださる。そんな方だと、条件なしの愛を、イエス様は説かれたのです。

そして、「言うだけ」でなく、この神の愛を説かれた方は、人々が頬を打つときに、衣服をはぎ取り、命を奪う時に、「自分から与えているので、彼らを輸してあげてください」と祈ってくれた神の愛の方だったのです。神様の愛を受けて、赦され、人を愛し、助け合ういのち、それが神様の願いです。それが私たちの本来の生き方です。それが誰もが生きやすい、本来の姿です。

そんな生き方を、少しずつ、一緒にしませんか?神様の祝福がありますように。


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