2021年3月5日金曜日

主日日課の学び(石居正巳先生) B年  四旬節第4主日 ヨハネ3:13-21

 四旬節第四主日 民数21:4-9 エフェソ2:4-10 ヨハネ3:13-21 

1)福音書の日課は、夜主イエスのもとを訪れたニコデモに対して、主はご自身の先行きを

 含めて語られたみ言葉である。その中には、福音の要約ともいえるヨハネ3:16も含まれ

 ている。人の子である主が木の上に上げられることが、この時期に読まれることの理由

 であり、それが神のこの世を愛したもうた行為であったことが示される。

2)天に上って、神のみわざについての知識を得ることは、人間にはできない。しかし主は

 天から降って来たお方であって、天の知識、すなわち神のみわざについての知識をもっ

 ておられ、またそれを人々に知らされる。しかも降ってこられただけでなく、再び「上

 げられる」。天に上げられるということに重ねて、十字架の木に上げられることが意味

 されている。それは民数21:4-9に記された、モーセが神の言葉に従って青銅の蛇を旗竿

 の先に掲げ、蛇に悩まされた民がそれを仰いで命を得た出来事と同じように、イエスの

 十字架を仰ぎ見ることによって、人々が永遠の命を得ることできるようになる。単に外

 的な条件がそうならざるを得ないように進んで来たというのではなく、それが主イエス

 の目標とされた救いの出来事であったからである。

3)マタイでは天の国、マルコでは神の国と言われている神との交わりの中にある救いの状

 態は、ヨハネでは「永遠の命」と呼ばれている。神の国という言葉は、日課の部分と同

 じニコデモに対する主イエスの言葉(3:3,5)の中にだけ出てくる。マルコ10:17-31に見

 ることができるように、イエスに従うことは永遠の命を継ぐことであり、み国に入るわ

 けであって、それが聖書の示す救われるということなのである。それはイエスがこの世

 に与えられ、十字架の死を遂げるように、木の上にあげられることによって起こる。

4)神は独り子イエスを与えられるほど、世を愛された。この言葉は、主がニコデモに答え

 られた言葉の一部になっているが、記者ヨハネのコメントであったかもしれない。いず

 れにせよ、最もよく主の福音を示していると言える言葉である。世と世にあるものを愛

 してはならない(・ヨハネ2:15) という戒めがある一方、神が愛されたのは天使たちで

 はなく、この世であった。その中に私たちも含まれているのである。神が造り、愛した

 もう世は、人の罪によって神から離れている。しかし、それでも愛してその回復を期待

 される神は、み子イエスを与えられた。ルターは、この聖句こそ、あらゆる悩みや人間

 的な問題に対する最上の処方箋だと言っている。

5)ヨハネ福音書では、天体の異変を伴い人の子が雲に乗って審判にやって来られるという

 ような最後の日の記述は後退して、むしろ現在すでに裁きがなされているという面が強

 い。永遠の命ということ自体終末的な考えであるが、それが将来のこととしてでなく言

 われている。(ヨハネ17:3参照) 同様に裁きも既に起こっていることである。神の子の

 受肉は世の救いのためであって裁きのためではない。しかし神の救いのわざを信じない

 で光より闇を選ぶのは、みずから裁きを選んでいることにほかならない。

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