聖書 ヨハネ3:14~21 (新167)
そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」
説教「最上の処方箋」 徳弘浩隆師
1. エルニーニョ現象で思うこと…
先週、こんな気象ニュースを目にしました。「気象庁は10日(水)、エルニーニョ監視速報を発表しました。昨年夏以来、ラニーニャ現象が続いています。エルニーニョ・ラニーニャの動向を予測するコンピューターシミュレーションの結果も考慮すると、春の間にラニーニャ現象が終息する可能性が高く、夏は平常の状態になる可能性が高いと見られています3月4日(木)発表の1か月予報によると4月上旬にかけての日本付近の気温は高い状態が継続する見込みです。その後、夏にかけても平年並みか高い傾向となる予想です。」
春になり、花粉症に悩まされ始めていますが、今年の春夏の気象予報が発表されました。その中で、時々耳にする言葉、「エルニーニョ現象」という言葉を何度も耳にしました。
それが聖書とどう関係があるのかと、不思議に思う方もいらっしゃるでしょう。しかし、このエルニーニョという言葉は、スペイン語で「神の子」「神の独り子」という言葉なのです。
こんな説明もあります。エルニーニョ(El Niño)とは、スペイン語で『男の子』を意味します。エルニーニョは男の子を意味しますが、単に普通の男の子ではなく、幼子イエス・キリストを指しています。もともとは、ペルー北部の漁民がクリスマス頃に現れる小規模な暖流のことをエルニーニョと呼んでいました。この言葉がペルー沖で数年に一度起こる海水温の高くなる現象に使われるようになりました。」
多くの人が知っているエルニーニョという天気予報で聞く言葉は、実は「神の独り子」という聖書の言葉がもとだったのですね。
ちなみに、その反対の気象現象を、ラニーニャといいますが、その説明はこうです。ラニーニャ(La Niña)とは、スペイン語で『女の子』を意味します。海水温の低くなる現象なので、海水温の高くなる現象であるエルニーニョの対をなすという事でアンチエルニーニョとされていましたが、エルニーニョはイエス・キリストを意味しており語感が悪いため、お男の子の対である女の子が提唱され、定着していきました。
アンチ・エルニーニョというと、キリスト教やスペイン語の語感からすると「アンチ・キリスト」というニュアンスになるので使われなくなったという興味深い話になります。
2. 聖書を学びましょう
さて今日は、そんな神の「独り子」についての有名な聖書の言葉が出てきました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という聖書の有名な大切な一節です。
神様は、罪を犯し、苦しみあえぐ人々を救うために、「独り子」を送りました。どんな形で送られたのでしょうか?その方はどんな風にしてこの世の悪をさばき、新しい世界を創られたのでしょうか?人々は神の「独り子」の前に恐れひれ伏したでしょうか?きっとその力で悪人を黙らせ滅ぼし、善人を助け上げたと予想する人が多いでしょう。
しかし、今日の聖書の言葉の少し前に、興味深い言葉が書かれています。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」と少し様子が違うように書かれています。
神様のなさることは不思議です。このモーセの話から、イエス様の生涯をもう一度見直さなければなりません。今日のイエス様の言葉は、夜にイエス様の所に質問に来たニコデモに対して、ご自分のこれからの出来事を含めて話をされたところです。天に昇って神の御業についての知識を得ることは人間にはできない。しかし天から降ってこられたイエス様の言葉によって、人は天の知識、神の御業について知ることが出来るのです。そして、イエス様は降ってこられただけでなくて、再び「あげられる」と説明されます。このあげられるという言葉は、二つの意味を持っています。天に上って帰えられることと、十字架の木に架けられることを暗示していたのです。
それは、旧約聖書をよく知って生きている彼らにはわかりやすい暗示でした。今日読んでいただいた民数記の21.4-9にある出来事を思い出し、重ね合わせ、神様の計画の不思議さを理解できるようになるためです。つまり、モーセが神の言葉に従って青銅の蛇を旗竿の先に掲げ、蛇に悩まされた民がそれを仰いで命を得た出来事と同じように、イエス様の十字架を仰ぎ見ることによって、人々が永遠の命を得ることできるようになるということでした。
3. 振り返り
私たちは何を見上げているでしょうか?力強い神様でしょうか?その神様にひれ伏して、ゆるしを請うて、問題解決をひたすらお願いすることでしょうか?
もちろん、神様は正しく、力強い方です。しかし、私たちが見上げている十字架はそれとは全く反対の出来事です。
モーセの民は神様に不信をし不満を言いました。それでその罪によって、蛇に噛まれて多くの人が死んだのです。しかし、青銅の蛇を作って見上げるように仕向けられた人々は救われました。彼らが見上げたのは、「蛇の形をした神様」を拝んだのではありません。自分たちの不信の罪が招いた出来事を見上げたのです。それと、十字架にかけられていくイエス様の姿を重ねてみなければなりません。そこには、正しく強い裁きの神様でも、偶像でもなく、私たちの罪がもたらしたもの、罪がもたらした出来事がかけられているのです。それを見上げるときに、私たちは自分の罪深さに気づかされ、悔い改めさせられます。その時に、優しさや、ゆるし、配慮や思いやりが心に生まれてきます。人々の心を作り替えるのは、洪水による滅びでも、外国による脅威でもなく、自らの心の中にある罪に向き合うことが必要だったのです。
4、勧め
神様は予想外の形で、私たちの心に迫ってこられました。強く怖い方としてではなく、私たちの罪深さのゆえに神をすら抹殺してしまうという出来事を直視することで、悔い改め、生まれ変わるように促されたのです。そのために、神様は愛する「独り子」をお与えになったのです。それは世を愛されたからです。「独り子」を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためです。 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。ヨハネの福音書3章16節は有名な一節で、「小福音書」とか「小聖書」ともいわれる、聖書の要約ともいえる場所です。ルターは「この聖句こそ、あらゆる悩みや人間的な問題に対する最上の処方箋だ」と言っています。
あれこれ迷うのはやめて、この処方箋を受け取ってみませんか?あなたの人生は変わります。
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風の谷より・キリスト教ワンポイント解説 「信じて仰ぐ」
四旬節第4主日の福音書はヨハネ3章13~21節です。16節は小聖書とよばれる節ですが、その前は「荒れ野で蛇が上げられたように、人の子も上げられなければならない。神の呪いを一身に受けて木にかけられて上げられなければならない」という言葉です。
そこで第一日課は旧約聖書のこの箇所、民数記21章です。エジプトを出てカナンの地に着くまでの旅の中で、イスラエルの民はぶつぶつと文句を言います。モーセや神さまに対して。そこで怒った神さまがサラマンダーという蛇を人の中に送り噛ませますと、噛まれた人は体が火のように熱くなって死んでしまいます。嘆いた人々がモーセに救いを求めると、神はモーセに命じて「青銅で蛇を作り竿の先に付けて上げ、それを仰ぎ見た者は死なずにすむ」という言葉が神から与えられました。これは偶像礼拝ではありません。ベテスダの池のように掲げられた時、真っ先に触った者が助かるというわけではないのです。言葉を信じて仰ぐだけ。教会の十字架もそうですね。イエスさまの業を信じて仰ぐだけです。信じて仰ぐから信仰なのです。シャローム!(三木久人)
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