今週の聖書の言葉
聖書 ヨハネ2:13~22 (新166)
ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。 そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。 イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」 弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。 ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。 イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」 それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。 イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。 イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。
説教「一夜城と神の神殿」 徳弘浩隆師
1. 140年かけても完成しない教会もあるが…
今日の聖書を読んで思い出すのは二つの建物です。ひとつは岐阜県にある一夜城、そしてもうひとつはスペインにあるサグラダ・ファミリア教会。どうしてこれらを思い出したかというと、聖書では「三日で神殿を立て直す」という話が出てきたからです。
一夜城はその名のごとく一晩にしてできたという城。今ある「復元」された城はきれいでいかにもお城ですが、歴史上の物は土塁を築いて小さな建物を建てただけの物らしいですね。しかし一気呵成に作り上げたアイデアと実行力が評価されたそうです。一方、スペインのバルセロナのサグラダ・ファミリア教会。これは、1882年に着工したものの、いまだに未完性。アントニ・ガウディという第2代建築家の独特なデザインと、長い間完成しない教会としても有名になりました。日本人の彫刻家も2013年から主任彫刻家として関り、それも日本でも話題になりました。さて、この教会がなぜこんなに建築期間がかかっているかというと、スペイン人のラテン気質で無計画だからとか、陽気で休み休みやっているからというわけではありません。この教会の名前はサグラダ・ファミリア、日本語にすると「聖なる家族」という意味で、ヨセフとマリア、イエス様の教会の絵画などがありますが、この聖家族のことを表します。教会の正式名称は「聖家族贖罪教会」といわれますが、この贖罪教会というのは、信徒の喜捨だけで建てられる教会ということだそうです。贖罪という名が示す通り、人々が悔い改め、献金をささげたそれらを集めながら、少しずつ建築を進めていくということなのです。国や市、または篤志家やカトリックの総本山などというスポンサーがあっての建築ではないので、時間がかかります。逆に言うと、みんなが悔い改めて、献金をささげるその量が多ければ多いほど資金調達が早まりますが、一気に集まるなら、それは人々の罪深さに比例するともいえ、歓迎された話ではないのかもしれません。もっとも、1990年代以降は拝観料収入を建築資金に充てることになり、予定より早く完成すると期待されています。しかしこれも新型コロナの影響で国はロックダウン、観光がストップし、また延び延びになっているとも言います。やはり人間の罪深い営みに何か比例か反比例している部分があるのかもしれません。
さて、今日の聖書では「神殿を壊してみよ。三日で立て直して見せる」とイエス様が言われたということですが、一体どういう意味があるのでしょうか?神様のメッセージを聞きましょう。
2. 聖書を学びましょう
ユダヤ教の神殿というのはとても神聖で大切なものでした。人々は聖書に定められた献金や供え物を納めていました。しかし当時はローマ帝国の支配下なので外国通貨が幅を利かせていましたから自国通貨に交換したうえで自分たちの神様に捧げていました。また、異邦人でも入ることができる場所もあり商人たちもたむろしていましたが、それは持っていくことができない供え物を、神殿境内で買うことができるためでした。それらの出来事そのものは、自分たちの信仰を守るために必要にも迫られ行われていたことだったのかもしれません。しかし、イエス様はそれを激しい勢いで責め、鞭で動物たちを追い払い、両替人の台をひっくり返したのです。そして「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」と言われました。
何が問題だったのでしょうか?それは、今日読んだ旧約聖書の言葉を重ね合わせるときに誤解することなく理解できます。旧約聖書は、モーセの十戒のところでした。その最初の戒めはこうでした。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」そして十戒は「両親を敬い隣人から奪い取ってはいけない」ことなど、神と人との間の大切な取り決めを教えているのです。しかし人々はその心ではなく、形式に陥っていました。神様に仕え信仰を守って生きていこうという一生懸命な姿勢ではあっても、何が一番大切なことかが見失われ、決められたことを遵守することが優先し、神様を見失っていたのです。
神殿には契約の箱があり、契約の箱には十戒の石板があると考えられます。しかし、そこに書き記されたことばの意味や、それが人々に訴えるものを聞き取り、そのように生きる生活ではなくて、その板や箱や建物、そして過去からの伝統や規則を守ることだけに一生懸命になっていたのです。
3. 振り返り
私たちはどうでしょうか?人々が作り上げた「神殿」という名の偽物の箱ものともいえる外面上のことに、とらわれすぎていることはありませんか?人々との出会いやかかわりにおいても、そして神様との関係においても。本当に神様をそして隣人を大切に生きているでしょうか?その声は聞こえているでしょうか?何かにとらわれて、声が聞こえず、今してあげるべきことに取り掛かることができていないということはありませんか?イエス様はそれを壊し、新しい神殿を作るといわれました。それは、今までの「常識」をひっくり返し、神様と隣人を大切に生きるということでした。そして、本来の神殿ともいえる神の言葉と愛を宿した神の子キリストが反対に壊されてしまうことになります。しかし、三日で建て直すという言葉通りに、三日目に甦り、人々は悟ります。壊すべきだったものはこの人ではなく、目の前の大きな外面上の神殿や因習であったということを。私たちも心に何重もの壁やガードを作り、過去の常識という言い訳を持ち出し、大切なものを守っています。しかし神様や隣人を守っているのではなく、自分自身の弱さや狭さを守っていたのかもしれません。
4、勧め
私たちも、さっさと壊してしまいましょう。古い自分を。いろいろな言い訳に固められた「わかるけどできない」「いいと思うけど今まではそんなことはしてこなかったから」「かわいそうだけれど自分には自分のやることがあってできないよ」という壁を。それは、神や隣人を大切にするのではなく、自分だけを必死に守ろうとしていた目に見えない偽物のお城や神殿を心の中に作り上げていたからです。イエス様それを壊しに来られました。そして自分が壊される、つまり裏切られ十字架で殺されてしまうという人間には予想外の出来事を通して、人々の目を覚まし、悔い改めさせ、本当の神と隣人との関係を取り戻す生き方を始めさせてくださるためにです。
十字架を見上げるときに、神の愛と犠牲を見上げるときに、心の中の城壁や偽の神殿はガラガラと音を立てて崩れていくはずです。四旬節はそういう季節です。一緒に聖書を学び、そのように生きる生活を始めませんか?自分が変えられ、世界も変えられていきます。神様の祝福がありますように。
風の谷より・キリスト教ワンポイント解説 「聖所の外」
四旬節第3主日は、イエスさまの大騒ぎです。燔祭が捧げられる聖所にはユダヤ人の男子のみが、女性や異邦人は外で祈る他ありませんでした。その神殿の外では牛や羊が売られ、礼拝のためとはいえ両替が行われていました。外で祈る人たちをどかして、盛んに商売が行われていたのです。イエスさまはそれを怒り「ここは祈りの家だ」とばかりに騒いだのでした。これに対応する第1日課は出エジプト記20章十戒です。旧約聖書は男性重視と思われがちですが、この当時の常識からすれば決してそうとは言えないと思います。ギリシャやローマでは女の子に名前は付けません。父親の名前を女性形にするだけです。対して旧約聖書には多くの個性的な女性の名前が付けられています。ミリアム、ルツ、ナオミ等々。そして対神関係の戒めと人関係の戒めの中間にある戒め、父と母を敬いなさい。古代バビロンのハムラビ法典にも似たような戒めがあります。但し「父を敬え」のみです。母は登場しません。父と共に母という女性を登場させ、名前の事など人物を尊重し女性の人格を大切にしています。 シャローム(三木久人)
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