2021年3月20日土曜日

週報 メッセージ 20210321





 今週の聖書の言葉 

聖書 ヨハネ12:20~33 (新192)

さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。 彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。 イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。 父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」 そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。 今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。 わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」 イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。


説教「新しい契約、この時のため」 徳弘浩隆師

1. 契約書で思うこと…

皆さんそれぞれに、教会のつながりという新しい神様の家族の中で、互いに助け合い祈りあい、宣教や奉仕をしてくださり感謝します。それぞれの人生に神様が出合わせた「隣人」があるでしょう。皆同じではなくても、それぞれが大切にし奉仕したい「隣人」に仕えておられると思います。それぞれを感謝し、尊重し、すべてが一つになって、キリストの働きとなるでしょう。私にもいくつかの人生の出来事から、いろいろな出会いがあり、大切にしたい自分の役割と思えるものがあります。特に帰国後は通常の働きに加えて、日本にいる外国人の方々のお助けをし、また神様を伝えたいと思っています。私が出会い、教会に来てくれているブラジル人の女性のことで、教会のいろいろな方からの温かいお助けを私からも感謝します。無事にもう一つの日本語試験にも合格し、残すは一つとなりました。新型コロナのために予定が狂いましたので、留学先の学校の期間が終わり、寮を出なければならなくなったときに数人の方が応じてくださり、結果的におひとりの会員の関係の方のアパートでしばらくお世話になることになりました。普通の契約ではなくてお貸しくださったので契約書はありませんが、何か迷惑をかけないようにと、覚書を準備したりしました。久しぶりに見た契約書の文章に学生の頃や、ブラジルの教会でゲストハウスをしていたときにポルトガル語で作って苦労した契約書のことなども思い出しました。

今日の旧約聖書にも契約という言葉が出てきます。そしてそれは、新約聖書のイエスキリストにおいて実現したと私たちは理解しています。それは、どんな契約だったのでしょうか?一緒に学んでいきましょう。

2. 聖書を学びましょう

エレミヤ書の31章にこうあります。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る」と。今年マルコによる福音書を読みながら、一緒に関連する旧約聖書とともに学んできました。今までも、契約という言葉は今年だけでも何度か出てきました。それは、ノアの箱舟と洪水の後の虹の話を思いだします。これが、神様が人類との間に置いた契約のしるしだというものでした。次はアブラハムの時、彼と彼の子孫をその信仰ゆえに祝福するという契約でした。その後、先週も学びましたが、ユダヤ民族が奴隷のような状態のエジプトから脱出した後、神様から契約をもらいました。それは、十戒や神様のおきてを守るなら守り祝福されるという契約でした。

今日のエレミヤはモーセの時の十戒やおきての契約を念頭に、次のように神様の言葉を伝えました。「この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」。十戒は石の板に刻まれていましたが、新しい契約は、「彼らの胸の中に授け、彼らの心に記す」というのです。どんな方法で「人々の心に刻む」のでしょうか?

それはイエス・キリストの生涯を通してでした。人々を救い幸せに暮らさせようと神様は何度も教え、助け、契約を結びました。しかし人々はそれを破棄してしまったのです。しかし、あきらめずに新しい契約を神様は差し出しました。イエス様は神のことばをわかりやすく教え、苦しみ、弱い立場の人々に寄り添いました。たくさんの人が集まり従いました。今日の聖書では、ユダヤ教徒ではない外国人・ギリシャ人たちも面会に来たほどでした。しかしその時唐突にイエス様は、これから起こること、それはイエス様の死について語り始められました。「人の子が栄光を受ける時が来た。 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」と犠牲になっていくことを暗示します。興味深いことに、ゲッセマネの祈りのようなやり取りに続きます。「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。」ヨハネのこの個所は「ヨハネ福音書におけるゲッセマネの園」とお言われるところですが、マルコの福音書のゲッセマネの祈りとは異なり、苦しみ祈る姿ではなく、積極的にそれを選び取り十字架の死に向かっていく姿が描かれています。「まさにこの時のために来たのだ」といわれました。

その先は十字架の死です。来週は受難週に入り、十字架にかかり死んでいかれるところを一緒に聖書から読んでいきます。今年は、今日のヨハネ福音書が伝えるイエス様のお姿から、潔く、十字架に向かっていかれるイエス様の覚悟と祈り、そのお姿を見ながら歩んできたいと思います。

3.振り返り

私たちはいつも、何を見ているでしょうか?苦しみや試練で、くよくよしていることが多くないでしょうか?目の前のたくさんのむつかしい出来事、むつかしい人も時にはあるかもしれません。しかし、目の前の出来事を進んで受け入れ、ゆるし、愛していくことが、イエス様に従うことかもしれません。

しかし、そんな力はありません。私たちは罪人だからです。心は弱く、狭く、神の声や救いの契約を何度も無視し、破棄してきたようなものかもしれません。どうしたら、変われるのでしょうか?

それは、裏切っても、逃げ出しても何度も「救いの新しい契約」を持ち出してきた神様の愛の執念を知ること。そして、最後にはその独り子を送り、十字架で死なせるということまでされました。それを進んで受け入れて、十字架にかかって身代わりになってくださったイエス様の姿、それが答えです。

これが、自分の心の弱さや狭さという罪の故だと理解した時に、私たちの心は痛みます。自分の罪深さを知り、それを赦してくれた方のことを知る時に、私たちの心は痛みます。しかし「その痛み」が、旧約の預言にあった神様が心に書き込む新しい契約書なのかもしれません。石の板に書き込んで大切にするより、「心に痛みとともに刻み込まれた神様の愛」を知ること、これが私たちが今までの自分とお別れして変わっていける出発点なのです。そしてそのように生きる私たちの姿は、私たちが出会う誰かの心にも、神の愛の痛みを伴う契約書を書き記すことになるはずです。

4、勧め 

今日の聖書は自ら進んで命を捨て、人々に救いをもたらしたイエス様と、それに従うならそのようにせよといわれるイエス様の言葉を、心に刻んでいきたいと思わされます。十字架を前にして、「この時のために来たのだ」といわれるイエス様です。私たちにも時折、困難を前にして「その時」が来るかもしれません。キリストを受け入れて、一緒に生まれ変わりましょう。

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風の谷より・キリスト教ワンポイント解説 「霊と文字」

 四旬節第5主日の福音書は、ヨハネ福音書の中でイエスさまが公に語った最後のことばです。イエスさまの救いのことばが裁くというのですが、いずれにしても私たちを生かす救いのことばです。これに対応する第一日課はエレミヤ31章31~34です。荒れ野で与えられた石の板にではなく、律法を心に直接語るということです。石の板に書かれた言葉は守らない者を殺す文字でした。再び語られた言葉は人々を生かす霊の言葉で心に直接語りかけることば、イスラエルを生かす言葉です。パウロがロマ書で言う通り、文字は人を殺すが霊は生かすのです。私たちの心には聖霊が語りかけ、神のことばを心に刻みつけます。私たちはこの言葉によって生かされます。イエスさまはこの言葉を私たちに与えてくださいました。 シャローム!(三木久人)


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