2021年3月28日日曜日

週報 礼拝メッセージ 2021-03-28

聖書の言葉 

聖書 マルコ11: 1~11 (新83)

一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。 もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」 二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。 すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。 二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。 二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。 多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。

「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」

こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。



説教「高ぶることなくロバに乗って」 徳弘浩隆師

1. 出かけるときの服装チェック?

ここ数年、私もついに?、出かけるときに忘れ物が多くなってきました。財布、免許証、老眼鏡、携帯電話、鍵など、「しまった、忘れた」と思って、玄関を出た後もう一度戻って取って来るということが増えました。そして最近は面倒なことにスクも加わり、忘れたことに気づき、慌てて取りに帰るということもあります。誰でも経験していることではないでしょうか?

中には、どうも服が気に食わないとか、今日の気持ちにしっくりこなくて、何度か着替えたりする人もいるかもしれません。そういえば、「メガネは顔の一部です」というCMをしていたメガネチェーン店もありましたが、確かにそうだと思います。最近では「マスクも服装の一部です」と宣伝しているところもあります。

その日の天候や行き先に合うか合わないかだけではなくて、自分の性格や社会での立場のようなものも気にして、「それ相応の」身なりや身だしなみに気を付け、違和感があるとどうも落ち着かないという気持ちになるものだと思います。

今日の聖書の出来事では、イエス様はロバに乗ってエルサレムの街に入ってきたという話が出てきました。世界を制覇した軍人や皇帝のような勇ましい軍馬でもなく、おとぎ話の王子様のように白馬に乗った姿でもありませんでした。それは、どんな意味があったのでしょうか?一緒に学んでいきましょう。

2. 聖書を学びましょう

馬やロバに乗るという話から、ロシナンテという馬のことも思い出しました。それは、スペインのセルバンテスという有名な作家が書いた「ドン・キホーテ」という小説で主人公が乗る馬です。しかしそれも勇ましい軍馬ではなく、やせ衰えた貧相な馬でした。そもそもその名前は、スペイン語の「Rocín(駄馬)」と「ante(以前)」から来たといわれ、「駄目な馬以前」という意味の名前でした。そしてその主人公・ドン・キホーテは騎士道小説ばかり読んで自分のことを騎士と思い込み、世の中の不正を正す旅に出ました。従えた従者のサンチョ・パンサはロバに乗ってついて行き、二人はあちこちでトラブルを起こしました。有名な話は、巨人たちに出くわして槍をもって馬で突進しますが跳ね返されてしまうのですが、実は巨人ではなくてスペインで有名や風車だったのです。

これは、今日聖書から読んだ、ロバに乗ってエルサレムに入り、世の悪を正そうとし、弟子を従えていたイエス様は、同じでしょうか?違うでしょうか?

皮肉にも重なって見える部分もあれば、根本的に違う部分もあります。イエス様の本当の姿を知り、そこに従う人たちの中に自分を重ねて見つけることが出来れば、今日の神様のメッセージを聞いたことが出来るということかもしれません。

イエス様は「滑稽な哀れな姿」でエルサレムに入ったのではありません。それは、今日読まれた旧約聖書の詩編に歌われていた「正義の城門を開けわたしは入って主に感謝しよう。これは主の城門 主に従う人々はここを入る。」「今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。祝福あれ、主の御名によって来る人に。」という言葉が実現する出来事でした。

そして、同じ旧約聖書の預言書のゼカリヤ書章9節にはこういわれていました。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って」と。

それは人間の一番大きな罪が「高ぶり」つまり傲慢になることであり、他者を否定して排除していくことを思い起こさせてくれます。私たちのその罪の問題を解決するために来られたキリストは、驚くべき姿で人々の前に現れました。「高ぶることなく。ろばにのって」です。

3.振り返り

私たちはどうでしょうか?ドン・キホーテの物語は、風刺で考えさせてくれることがあり、それ故に、好まれ読み継がれてきたのでしょう。自分をわきまえず、変な思い込みに取りつかれ、世の悪を正そうと「活躍」するのですが、大きな敵と思って突撃した相手は自分の思い違いだったということ、あながち笑うことが出来ません。私たちにそれぞれの人生にもあるからです。

本当の自分を知らず、思い込みで、あるいは背伸びをして、良かれと思って何かにぶつかるけれどもお門違いという滑稽さです。あるいはそれで人を傷つけ、自分も孤立し苦しんでいるのかもしれません。自分の罪や弱さを隠し、精一杯背伸びをして、繕ったり、嘘をついたりして競い合い、立派な人生を生きていると思い込んでいる自分がいるかもしれません。

精一杯自分の服装や身なりに気を付けているつもりでいても、つまり、乗っているのは立派な軍馬で自分は騎士だと思い込んでいるけれど、本当は無力で哀れな姿かもしれません。そんな自分を見るような悲哀や、社会の体制に対する風刺が、とても共感を呼ぶのでしょう。

4、勧め 

なんの誇ることもないのに、立派だと思い込んで実は痩せ馬やロバに乗っている滑稽な罪人の自分と、神の子キリストでありながら勇ましくではなく、高ぶることもなくロバに乗って街に入ってこられたイエス様の違いを見つめましょう。

そして、私たちこそ、高ぶらず、神様に従い、人のために命すら投げ出すような愛の人に変えていただきましょう。

今週は「受難週」です。イエス様が十字架にかかって下さる出来事に、聖書の話は進んでいきます。私たちをさばき滅ぼすのではなくて、代わりに罪を背負い死んでいってくださった出来事を通して、私たちは自分の罪に気づき、回心させられていきます。静かに祈りながら過ごしましょう。そして、罪ゆるされて、新しくされていきましょう。

神様の祝福がありますように。


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