2021年2月7日日曜日

週報 礼拝メッセージ 2021.02.07




今週の聖書の学び

福音書 マルコ1:29~39 (新62)

すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。 シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。 イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。 夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。 町中の人が、戸口に集まった。 イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。

朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。 シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」 そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。


説教「そのためにわたしは出て来た」 徳弘浩隆師

1. 新しい時代の聖書の学び?

インターネットの映画のサービスなどから良いものを選んで、「聖書を読んで祈る会」等で一緒に見ていました。使徒言行録、ローマ帝国とキリスト教、そして、高校生の歴史の授業のビデオなども見てきました。もちろん、聖書を読んで、補足したり映画や番組の偏った見方を修正したり検討したりもしました。

聖書を読んでいてわかっていたつもりでも、文字をすらすらと読んでしまって気が付いていなかったことに気づかされたりしました。高校生の世界史の授業も、イスラエル王国やバビロン捕囚など、聖書の中のお話が実際の歴史の記述の中でも扱われ、高校生でも教えられていたことに、再度驚いたりもします。

そしていま、集まっての集会が出来ないので、Zoomというソフトを使いながら、一緒に聖書を読み、関連するVideoを一緒に見て、学んだり語り合っています。そして、ご病気の方のことやそれぞれの必要をできる範囲で共有して、祈ったりしています。携帯電話料金値下げも続いていますので、スマートフォンを使っても、こんな集会も参加できますので、ご希望ならお声掛けください。設定したり使い方の教室をすることもできます。

さて、先週はガリラヤ湖のカファルナウムのビデオを一緒に見ました。ちょうど礼拝で読んだ、イエス様が会堂で教え、汚れた霊に取りつかれた人からその霊を追い出したという「古い会堂の遺跡」、そして今日聖書で読んだ「ペトロのしゅうとめの家といわれている遺跡に建てられた教会」も見ました。

それにしてもマルコによる福音書はこういう「癒し」や「悪霊」の話がたくさん出てきます。少々、おどろおどろしい、オカルトのように思えたりもします。どうしてでしょうか?そして、そこから私たちが何を聞くことが大切でしょうか?

2. 聖書を学びましょう

今年は、聖書の学びの教材を一つ指定して、一緒にそれぞれの場で学んでいきましょうと、大垣教会でも提案されました。新型コロナもあって大勢で教会や地域集会に集まることが難しくなったのもあり、家庭集会に少人数で集まり、気軽に聖書やキリスト教を学ぶスタイルにしましょうと。分りやすく、疑問にも答えてくれる聖書の共通の教材として、一つのシリーズを思い出しました。それはブラジルの聖書学者が作ってベストセラーになり世界各国語に翻訳アレンジされているシリーズです。日本語版を作りラジオ番組として録音する作業に私も参加していましたが、また再開しようという話になったのです。先週、ブラジルの牧師や声の出演をしてくれる日本人の元女優さんと打ち合わせのVideo会議もしました。

ちょうどそこで、今日の聖書個所の原稿のチェックもしました。「どうしてマルコによる福音書は、悪霊とか癒しのことが多いんですか?」という質問とその答えです。「それは、マルコはギリシャ・ローマ人、つまり外国人を念頭においてイエス様の福音を書いたからです。だから、旧約聖書を知っているユダヤ人を念頭に書いたマタイのようにイエス様の系図や、旧約聖書の引用、預言の成就という話ではなくて、すべての悪の力に勝り、それをおさめ、癒し、私たちを新しくしてくださるキリストを描いていると考えることが出来ます」と説明されます。ぜひ、楽しみにしていただきたいと思います。

聖書では先週の出来事の後、イエス様の一行はシモンとアンデレの家に行きました。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたのを聞き、イエス様はそばに行き、癒されました。その後、病人や悪霊に取りつかれたものを連れてきて、町中の人が戸口に集まったとあります。そして、翌日は朝早く祈られ、「近くの他の町や村にも行こう」と、活動を広げられていくのです。

イエス様は、ただの魔術師のように病人を直し、悪霊を追い出すことだけが目的だったのでしょうか?そうではありません。聖書のこの言葉を聞き逃してはいけません。「そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」宣教する、つまり、「福音、良い知らせを告げ知らせる」ために来たのです。

3. 振り返り

マルコによる福音書の最初を覚えていますか?「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書き始められていました。それが、いろんな形でいよいよ始められていったのです。そして、聖書をよく読んで基礎知識がある人向けではない書き方で、イエス様を紹介してくれているマルコは、私たちの力でどうにもならない悪魔的なものへの勝利から書き始めます。そして悪霊を追い出し病気を癒すというエピソードをたくさん並べながら紹介してくれています。悪魔的なもの、それは、目に見える存在ではなく、私たちの心の奥底にある罪、それがもとで、人生を見失い、人を信じられなくなり、愛せなく、ゆるせなくなった、諍いや殺し合いさえする私たちの心の姿でもあります。

病気も癒していただけるよう祈りましょう。しかし、それだけではなくて、私たちの心の奥底の暗闇を、解決していただきましょう。それは、イエス様の福音・良い知らせを素直に聞いてみることから始まります。

4、勧め 

先週は、ベツレヘムにいる友人牧師ともZoomで会議もしました。聖書を読む集会でも紹介した、パレスチナ人のルーテル教会の牧師、ミトリ・ラヘブという牧師です。昔何度かお互いに行き来しましたが、16年ぶりに顔を見て話し、「再会」を喜びました。新型コロナで旅行もできない、伝道集会もできないから、インターネットを使って「聖地ツアー」をしようという企画を提案しました。昔一緒に交流した広島教会の立野牧師を誘って3人で話し合いをしました。ミトリ牧師は「自分も似たことを考えていたけど踏ん切りがつかなかった。でも、徳弘が言うなら、やろうか!」と合意し、計画を煮詰めているところです。

目の前の奇跡や、すごい技術革新に目を奪われないで、彼とともに昔イエス様の時に何が起こったのか、それは人々に何をもたらしたのかを、一緒に学ぶ機会と「旅」にしたいと思います。ミトリ牧師はよくこういいます。「何千・何万のクリスチャンが毎年ベツレヘムに来てくれていますが、数千年前の遺跡や石の跡ばかり見ないで、生きた石に出会ってほしい。つまり、そこに住む人々に何が起こったのか、そして今住む人々はどういう暮らしぶりなのかを」と。

イエス様の教えをまなび、私たちも、そのように生きていく生き方へ変えられていきましょう。ゆるし、愛し、仕えるという生き方でした。その時、あなたも、この世界も祝福され、変えられていきます。

 

 風の谷より・キリスト教ワンポイント解説

 「鷲のように」

 顕現節第5主日の日課は、イエスさまがエルサレム神殿から隔絶されたガリラヤで、神の国を示し教えたということです。神の国と神の救いのみ業であり、そのみ言葉であり、言わばイエスさまそのものです。そこで第一日課は、亡国と捕囚の中で打ちひしがれたバビロンのイスラエルの人々に神の慰めと救いの約束を語った第2イザヤの言葉になります。ところで、都が破壊され王侯貴族を捕らえ移された。つまり国の滅亡、当時の常識では関わっていた神々の死を意味していました。その神々は、その国の昔の栄雄の神格化であったり、水利や水源の気候の神格化なので国と一緒に亡びてしまうものでした。しかし、まことの神は亡びることはありません。天地万物をお創りになった神がイスラエルの先祖に出会い、これに心ひかれてこの民の神となってくださったのです。この神に支えられて鷲のように飛び立つのです。シャローム!(三木久人)

 

四旬節と灰の水曜日礼拝 - 今年はオンラインで -

クリスマスと違って、毎年日付が変わりますが、今年は、2月17日(水)が灰の水曜日、2月21日(日)が四旬節第一主日で、キリストの受難をしのび悔い改めの祈りの期間が始まります。

コロナ禍の中、緊急事態宣言も続き、「灰の水曜日」の夜の礼拝はできそうにありません。代わりに、FacebookやYoutubeで日曜日同様、牧師夫妻が岐阜教会で実施する「灰の水曜日礼拝」の中継をいたします。どうぞ、ご覧ください。そして、それぞれの場所でお祈りください。

灰の水曜日の説明:この日の典礼では、前年の枝の主日に使用された棕櫚の枝などを、最近では3日前の日曜日に不要になった木製の十字架などを集めて、燃やした灰の「祝別式」と「塗布式」が行われる。祝別式とは、この灰を前に神に祈り、聖別することを指す。塗布式とは灰の水曜日の礼拝で、司式者が信者各自の額に灰の十字を記し、「あなたはもともと土から生まれたので、まもなく土に返る。だから罪を悔い改めて、イエスの教えに立ち返りなさい。」と言いながら祈ることを指す。この儀式後、各信者は額に灰の十字を付けたまま教会から出て、外を歩き、通常しばらくは額に記された十字を自ら拭い去ることはない。(WiKi)


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