2021年2月17日水曜日

灰の水曜日2021 メッセージ

 


聖書 福音書 マタイ 6: 1 6,1618

「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。 あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。

「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。 それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」

 

説教「秘儀ではなく まこと」」 徳弘浩隆師

1. 謝罪会見

 最近、ある謝罪会見をTVで見て、すっきりしない気持ちを持った人も多いでしょう。私もそうでした。悪いと思って本当に謝罪しているのか、事態を収拾するために「謝罪」という言葉を表明するためだけに、会見を開いているのかわかりませんでした。実際、謝罪はしていなくて、記者の質問に反論し攻寄る様子もありました。形の上だけの「謝罪」をしても意味がないということ、いや、むしろ、逆効果ですらあったということを教えてくれました。

2.振り返り

しかし、私たちは人のことを責めることが出来るでしょうか?あざ笑うことが出来るでしょうか? 自分たちの姿を振り返ってみてみましょう。 正しく生きているつもりでも、そうではないこと。 悪いことをしてそれがばれたときに、一生懸命謝るけれども、心がこもっているかどうか、振り返ると、そうでもないことがあるのを、自分自身が一番よく知っているからです。

いくつかの謝罪の方法を、思い出してみました。「頭を丸めて謝罪」というのがあります。日本では、あるいはいくつかの国では、坊主頭にして本気度合いを表明するということがあります。 「土下座」というのもあります。土の上に膝まづき、両手をついて、額を地面につけて、最大限のお辞儀をするというものです。

3. 聖書にはどんなことがあるでしょう

人間同士の関係での「お詫び」や「謝罪」ではなくて、「悔い改め」ということを考えましょう。「断食」ということがあります。食事を断って、お詫びするというもの。生きていくうえで一番大切な食事をやめて、お詫びをする。 そして、「灰をかぶる」「灰の上に座って」ということも出てきます。有名な聖書のヨナの話では、「断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった。 このことがニネベの王に伝えられると、王は王座から立ち上がって王衣を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座し」と断食と灰ということが、セットで記されています。

しかしこれは、「私たちも、人に対して、神様に対して、悪いことをした、罪を犯したら、こうすればよい」というマニュアルではありません。聖書にこう書いてあるからと、仮に、これらのことをやったとしても、そのまますぐに「うまくいく」とは限りません。

4. 聖書から聞きましょう

では、どうしたらいいのでしょうか。 聖書には、こういう文章もあるからです。今日の聖書のマタイによる福音書の中のイエス様の言葉です。「偽善者は断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。彼らは既に報いを受けている」という具合です。

「さすが新約聖書の言葉だ。イエス様は形だけのユダヤ教・旧約聖書の教えを批判して、新しい道を開かれたのだ」と思うかもしれません。しかし、旧約聖書の詩編にもこうあります。「 神よ、わたしを憐れんでください、御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください。神よ、あなたに背いたことをわたしは 知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。神よ、あなたに、あなたにのみわたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく、あなたの裁きに誤りはありません。わたしは咎のうちに産み落とされ、母がわたしを身ごもったときも、わたしは罪のうちにあったのです。」

では、どうしたらよいのでしょうか。 聖書は、それぞれの場所でこう続けます。「あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。 それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」また、「 あなたは秘義ではなくまことを望み 秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください、わたしが清くなるように。わたしを洗ってください、雪よりも白くなるように。喜び祝う声を聞かせてください、あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。わたしの罪にみ顔を向けず、咎をことごとくぬぐってください。神よ、わたしの内に清い心を創造し、揺るがぬ霊をわたしの内に新くしてください。」

 隠れたことを見てくださる神様、私たちの表面の行いではなく、その心を見ておられる神様を見上げて生きていくことが大切です。そして、「秘儀ではなくてまことを」とあります。宗教的ないろいろな儀式ではなくて、「心の在り方、真実」を神様は望んでおられるのです。 灰の水曜日は、棕櫚の葉の十字架を燃やした灰を額に十字に塗って、悔い改めをする礼拝の式の伝統です。カトリック教会などで行われますが、私たちルーテル教会でも、その伝統を使って礼拝をすることも多くあります。しかしこれは、宗教上の秘儀、特別の儀式ではありません。今年はコロナ禍で集まって礼拝が出来ませんから、額に塗ってもらうことはできません。しかし、そもそも、神様はこれを見ておられるのではなく、私たちの心の在り方を見たおられるのです。「プロテスタントの教会でそんな儀式をしてもねぇ?」と賛成しない方もおられるかもしれません。しかしそもそも、これは、悔い改めを身をもって体験し、心をこめるための一つの方法でしかありません。これをしても、心が本当に悔い改めなければ意味がないと、聖書の言葉は私たちに告げている通りです。

 一番大切なことは、生まれながら罪の心を持っていることを認め、神様の言葉に謙虚に従い、洗っていただき、新しい霊を与えてもらうことと、詩編はすでに伝えています。それを推し進め実現してくださるために、イエス様はお生まれになり、人々に教え、十字架で人々の罪を背負っていかれました。

 罪を悔い改め、洗礼を受け、十字架を見上げ、新しく生まれ変わること、これがキリスト教の生き方です。宗教とか、信じるとかいう頭の中の出来事でも、断食をしたり灰をかぶったり儀式をしたりとい表面を繕うことでもありません。キリストの言葉に従い新し生き方をする生き方が大切なのです。

「働き方改革」という言葉が叫ばれています。しかし、私たちは「生き方の改革」をしなければなりません。実は、私は最近、知らないうちに人を傷つけ嫌な思いをさせてしまって、その気持ちを告げられました。忘れ、気が付かずにいたことを教えられ、正直に謝罪しました。しかし、一生懸命謝るだけではいけないと気づかされました。同じ失敗を繰り返してはいけないし、いっときの謝罪では意味がないと思ったのです。私は同じ失敗をしないように「改善案」を書きました。それをお詫びの言葉とともに伝え、すぐに実行に移しました。洗礼を受けても、牧師をしていても、こんな風に失敗をし、ゆるしたりゆるされたりしながら生きています。神様との関係もそうでしょう。「赦してください。二度としませんから」と一生懸命謝ってもだめです。「変わること」が必要です。ゆるされ、生まれ変わることです。

5.  勧め

 灰は、いろいろなことの象徴です。あく抜きをする、清める、きれいにするために用いられていました。 エレミヤ書2.22にこうあります。「たとえ、あなたが重曹で身を洗い、たくさんの灰汁を使っても、あなたの咎は、わたしの前に汚れたままだ」 そして、焼け跡や葬儀を連想すればわかるように、すべてを失い、いのちすら失う謙虚な姿です。

 私たちも、毎日の忙しい生き方から離れて、今日から始まる40日間、イエスキリストの十字架の苦しみの意味を、自分の心の中の闇を見つめながら、悔い改める祈りの時間を大切にして、生きていきましょう。その時に、私たちの心や生き方が変えられていきます。その時に、社会や世界も変えられていきます。そのためにキリストは命を捨ててくださったのです。神様の祝福を祈ります。


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