2020年12月5日土曜日

週報 説教メッセージ 20201206





今週の聖書の言葉 

福音書 マルコ 1: 1 8 (61)

神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

 

説教(解説) 「道の準備、だれの道?」 徳弘浩隆師

 

1.  天が裂ければ…

先週の聖書の個所は「天を裂いて降りてきてください」というイザヤ書の祈りの言葉でした。すると、ほんとうに日曜日の朝、天から大きな光が降ってきたそうですね。ニュースによるとそれはゴルフボールくらいの大きさの火球というもので、流れ星の一種のものが三重県や岐阜県で観測されて、満月ほどの明るさで人々を驚かせたそうですね。ちょうど聖書の話と同じような出来事で、昔なら神のお告げかと思われるところかもしれませんが、びくりしました。

さて、今日は道の準備のお話です。岐阜教会そばの正木の四つ角も道路工事が続いています。道はもうあるのに、立ち退きと整備が進んでいない様子でガードレールのようなものが置かれて使えない状態でした。「道はもうだいぶできているのに、なんともったいないことか」と思いました。しかし、ようやくそれも整備が進んで、広い四つ角になるようです。

今日の聖書は「道の準備をせよ」といいます。何のための道なのでしょうか?そして誰のための道なのでしょうか?一緒に考えていきましょう。

2.  聖書を学びましょう

マルコによる福音書では、「神の子イエスキリストの福音のはじめ」と書き始められていますが、その冒頭に現れるのは、イエス様ではなかったということは、非常に興味深いことですね。イエス様が登場せずに、その準備をするために神から遣わされた洗礼者ヨハネの登場があることに注目しましょう。これは、イエス・キリストを迎える前に、準備が必要だということを教えています。

マルコは預言者イザヤの言葉を引用して、洗礼者ヨハネを紹介します。これは、旧約聖書にあるイザヤ書の403節です。前後を引用するとこういう話になっています。少し学んでみましょう。

「帰還の約束」 慰めよ、わたしの民を慰めよと あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ 彼女に呼びかけよ 苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを 主の御手から受けた、と。

呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え 

わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。

イザヤ書は旧約聖書の偉大な預言者で、神の声を人々に伝えました。66章からなるイザヤ書は、内容や論調からして1-39章、4055章、5666章と3つのパートに分けて学ばれます。イザヤ自身が将来のことを神の知恵と力であらかじめ語っていたという考えや、イザヤの弟子達が後にイザヤの言葉を整理してまとめていったという考えもあります。いずれにしても、40章から論調が変わるのは、その伝えている内容が、神様のご計画が進んでいくにつれて、代わっていると考えてよいでしょう。

初めのパートは神様の警告と厳しい裁きが語られ、歴史的にもその後ユダの国は滅びて他国バビロンに支配され、人々は他国に連れていかれます。

二つ目のパートは神様のゆるしと慰めが語られ、歴史的にもその後今度は支配者バビロンが滅びてユダの人々は自国に帰っていくことができるようになりました。

これらの計画を神様はイザヤを通して人々に伝えました。「神様を無視して、自分勝手に生きてはいけない。もしそうするなら、あなたは苦難を味わい、自由に生きることができなくなる。」という最初のパート。しかし、神様は怒りと破壊の神ではなくて、慰めとゆるしの神です。「苦難を味わい、悔い改め、時が過ぎれば、ゆるし、助け、元の場所に連れ帰ってくださる、救いの神様」なのです。それが、イザヤ書40章から始まる部分でした。ですから、「帰還の約束」という表題がついていました。ユダの民はそのように苦難を味わい、神様にもう一度向き合って、生きる道を模索しました。神の言葉を読み返し、神を愛し、人を愛する道を求めました。そこで、神は赦し助けてくれたのです。

マルコによる福音書では、冒頭でこのイザヤ書40節の言葉を引用しました。苦しみは過ぎ去り、神様はゆるしてくださり、救ってくださる時が来た、と。しかしそれには、「道を準備せよ」とのことで、それを人々に勧め教えるために働いた洗礼者ヨハネの活動を紹介しているのです。

3.  振り返り 

私たち一人一人の人生にも、苦難や絶望の時もあるでしょう。自分に愛想が尽きたり、人をゆるしたり愛したりすることができなくなることもあるでしょう。人類の歴史は、そういう歴史です。聖書は「聖なる」書物ですが、立派なことばかり書かれている偉人伝ではありません。人類の罪や失敗が実はたくさん書かれています。しかしそれにかかわり続ける神の働き、時には懲らしめ、警告する神様。しかしそれで終わりではない、ゆるしと慰めの神様のかかわりが書かれているのです。

4、勧め 

今日の聖書の学びはこういうことです。苦しみや絶望の中で、嘆いたり恨んでいるのではなく、神様を見上げて、改心していくなら、神様は赦し、祝福してくださるということ。そのために、私たちは準備をしなければなりません。道をまっすぐにすること。私たちの生きてきた、曲がりくねった道も思い出すでしょう。しかし、今日のイザヤの言葉は、「自分の道を正してまっすぐに生きていけ」とは言っていません。「神様のために道を整えよ」というのです。自分で努力して、その結果救われるのではなくて、自分で神様に近づいていくために道をまっすぐにするのではなくて、「神様があなたのところに来てくれやすいように自分の前の道をまっすぐにせよ」と読むことができます

救いは自分の努力結果ではなく、自分が心を神様に向けて悔い改めるとき、神様のほうからやってきてくれるのです。そして、それが具体的に実現したのが、イエス・キリストの誕生でした

クリスマスの買い物や準備をするときに、私の心にも神様が来てくれるよう、神様への道をまっすぐにするよう、準備をしませんか?そうすれば今年のクリスマスは、そしつぉのごの人生もきっと、もっと恵まれた日になるでしょう。神様の祝福がありますように。


0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。