2020年12月13日日曜日

週報とメッセージ 20201213





 

今週の聖書の言葉 

福音書 ヨハネ 1: 6~ 8&19~28 (新163)

神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。

さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、 彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。 彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。 そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」 ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。

「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」

遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。 彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。 その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」 これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。


説教(解説)「光ではなく、光について」 徳弘浩隆師

1. パイプオルガンとオルガン奏者

忙しい年末ですが、オルガンコンサートに行ってきました。去年妻が見つけてくれた岐阜県のサラマンカホール。バッハのクリスマス・コンサートがあるというので、忙しいけれど、いや、忙しいからこそと、行くことにしました。仕事に一区切りをつけて車を急がせ、開始直前に滑り込んでみると、会場はほぼ満席。たくさんの人が聞き入っておられます。ホールのアイデアか奏者の指定かわかりませんが、手や足元が良く見えるように、ステージのパイプオルガンの下には横長いスクリーンが設置されて、演奏の模様が良く見えるようになっています。

曲目は、「アヴェ・マリア」、「マニフィカト」、「いざ来ませ、異邦人の救い主よ」などのクリスマス関連の曲もあり、アンコールには「神のひとり子なるキリスト」も聞かせてくれて、音楽があまりわからない私もルターにバッハ、クリスマス、…など、楽しく過ごし、いろいろと瞑想をしました。

そんなことを体験しながら、今日の聖書の個所をもう一度味わいながら、いろいろと思いました。


2. 聖書を学びましょう

今日の聖書は、ヨハネの福音書から選ばれています。ヨハネは冒頭で、「神のひとり子が肉体をとって人となり、暗闇のようなこの世に来てくださったこと、それがイエスキリストであること」を説明しています。そのあとが今日の個所で、その光としてこられた方を紹介し、証しするために人々の前に現れたのが、洗礼者ヨハネであったことを示し、彼と人々の対話が今日の福音書の個所になっています。

洗礼者ヨハネは人々の関心を集めた説教者でした。彼は、荒野で悔い改めとそのための洗礼を受けるよう、人々に呼びかけていました。そんな彼のもとに、エルサレムのユダヤ人たちは、祭司やレビ人を遣わして尋ねさせました。「あなたがメシア、つまり救世主なのか、または預言者なのか」と。しかし彼は否定しました。それで、遣わされた人々はもう一度尋ねます。「では、なぜ、洗礼を授けるのですか」と。するとヨハネは答えました。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。 その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」と。

少しわかりにくい返事ですが、彼は、自分はみんなが待望しているメシア、つまり救世主ではないことを明言します。そして、自分より後から来る方は偉大な方だといったのでした。それが、神の子、暗闇に光としてこられたイエスキリストを明示的にか、結果的にかはともかく、そう表していたと、考えられます。

当時のユダヤ人は、混乱する世の中で、救いを求めていました。偉大な宗教家が現れると「この人がそうだろうか?」と考え、期待したでしょう。国は滅び他国に奴隷のように連行され、ようやく国に戻って再建しても、今度は別の大国に支配され、宗教的にも現実の生活も自由にできない苦しさの中で希望を失いながら生きていたからです。聖書に約束された救い主を待っていたのです。


3. 振り返り 

さて、今の私たちはどうでしょうか?生きにくさ、たくさんの問題、そして今年は一気に世界中の人々が伝染病で生命の危機に直面しました。見えないその病は、人と人が離れて過ごしたほうが良いことになり、私たちは今までどおりの生活ができなくなりました。寂しく、不安になりました。知らないうちにうつしうつされるかもしれないと、猜疑心の中を生きています。そして、解決を求めています。それはかかってもすぐに治る特効薬、またはかからなかったりかかっても軽く済むはずのワクチンを待ち望んでいます。または、今まで以上に衛生管理もしますが、神様にも頼り祈るようになったかもしれません。

薬が出るたびに、これか、いや、これはダメだったようだが、今度のあれかもしれないと、次々に期待をかけます。洗礼者ヨハネに、あなたがキリストなのですか?そうでなければ誰でしょうか、と尋ねたように。

 息が詰まるような毎日ですが、クリスマスのコンサートに行ってバッハのパイプオルガンの音楽を聴いて、固まった心が少し解きほぐされ、違う空気をすって、考え事をしたり祈ったりもして、豊かな時間を過ごしました。

 しかし、人々は、ホールの正面にある豪華なパイプオルガンに見とれて、演奏者の手元の指さばきや足元の巧みな演奏に見入ったかもしれません。しかし、「何を見に来たのか」という問いを感じました。パイプオルガンが主役でもなく、演奏者の手足が主役でもないはずです。その音色、そして、その音色に託したメッセージが主役でしょう。そしてそのメッセージは、ラテン語やドイツ語でつけられた題の中身。マリアがお告げを受けたときに、「神様の御心の通りになりますように」という祈りのマニフィカト、そして「いざ来ませ、異邦人の救い主よ」、「神のひとり子なるキリスト」という祈りの言葉や信仰の告白の言葉だったはずです。


4、勧め 

ヨハネは光ではなく、「光について証しするため」に来た、と書かれてありました。私たちは、光り輝くものを見るときに、それが照らし出すものに心を奪われてはいけません。それを照らしている光そのものが大切です。それがなければ、闇は暗く、寒く、危険で満ちたものになるからです。

暗闇の世の中に、光としてこられた方、救世主であるイエス様の誕生をお祝いするのがクリスマスです。私が言ったクリスマス・コンサートも、主役は、オルガン奏者でもなく、オルガンでもなく、バッハの曲でもなく、それらが紹介しているクリスマスの出来事が、一番大切なのです。私たちの人生でも、それを、もう一度見つめる時を過ごしましょう。


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